私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

静岡撮影旅⑤帰り道

次の日は、兄弟のインスピレーションと祈りから、

急遽まったく違う方面へ行くことになった。

 

この日が私にとっては最終日になった。

この旅の後、無価値感や、悲しみが上がってきた。

撮影ファンクションという特別性 - 私は知覚に問題があります

私にはspeak upする価値があるのだろうか? - 私は知覚に問題があります

自分が赦せない - 私は知覚に問題があります

 

仕事を休んでそのまま旅を続けるというのがガインダンスだったのだろう、

だから私はガイダンスに従わなかった。

みんなは愛されて導かれていくけど、

私はもう愛されないだろう、だめだろうというような

怒りや悲しみ、孤独が上がっていた。

 

まったく、私は意気地が無い。

会社や社会のルール、常識に囚われていて、

それを破ることが怖い。

 

お前の信仰はその程度かと思ったし、

 

そんなのできるわけないだろう!と聖霊を信頼せず逆ギレし、

マトリックスでネオがエージェントに捕まってしまったように思えた。

 

大雨の中、霧で数メートル先しか見えず、

まったく視界不良の中の高速道路を車が走っていく。

 

ふと後部座席で、

エスが運転していていて、包まれているように感じた。

 

私たちから見るとまったく先が見えない。分からない。

 

信頼して身を委ねる。

 

美保の松原に神の道という歩道があった。

 

松林の中、

神社の鳥居まで一直線に続く道。

 

目を開けてみればなんの障害物もなく、

真っ直ぐで迷いようがない平らな道なのに、

 

目を閉じている私には

神の道が複雑で不安、恐ろしく思えている。

 

まったく先が分からない。

この道を走っているように。

 

昨晩、この撮影に合う天候に合わせて、日程を調整しようとしていた時のこと。

 

この撮影の前も、仕事で体がきつかったにもかかわらず、

「行きます!」「大丈夫です!」と簡単に返事した。

 

その後、のり子さんとれいさんが話しているのを聞いて、

その「行きます」と返事した自分の動機が、浮ついているのを感じた。

 

明らかに「飛びついて」いた。

 

聖霊に尋ねもせずに。

 

自分の価値を高めようとするために、、

これを逃したら損する!という衝動から

自分が何か得られそうなファンクションに手をあげ、返事していた。

 

そう話しているのを聞いて、

まったくそのとおりだと思った。

 

何をやるにしても、

仕事も、話すことも、何かをサーチすることも。

 

これが、

「あなた、松ぼっくり拾いね」と言われたら、飛びつかなかった。

 

松原にたくさん松ぼっくりが落ちていたのを見て、

これだけを拾いなさいと言われてもいい、と思っていた。

 

だけど、

全体のためとか言いながら、

本当は「松ぼっくり拾うだけなんて嫌だ!」と思っているんだよ、私。。

そうなんだよ。

 

ああ、そうか。

そう認めて、打ち明けた。

 

それは、

「価値がない、価値を高めるためにそう言いました」

そこを打ち明けるのだ、とのり子さんに指摘されてようやく言えたのであって、

 

まだまだ認めんぞ、、と思いながらの浅いところからの打ち明けだった。

  

確かに、それをまったく認めたくなかった。

ましてや口に出して打ち明けるなんて思ってもみなかった。

 

 

まったく逆のことを打ち明けるのか。

 

私、やってやる、

私は知っている、わかっている、この方がいいに違いない

という思いと。

 

まったく聖霊に尋ねず、飛び出していく。いつも。

あの輪島の自転車撮影の時に、3人一緒に協調して進むのではなく、

自分は優れていると証明したくて、一人ダッシュして出て行った時みたいだ。

 

その場にいる動機も、ほとんどそれだった。

 

でもそういう時って、平安じゃないな。

 

何かを成す者でありたい。

成す者として、何かを成さねば。

私はできる。

 

自分の価値を高めるために。

愛されるために。

 

そんなこと必要ないんだよ、

すでに愛されているよって教えてくれているのに、

耳を貸そうとしてない。

 

それに気づいてやめていきたい。

 

飛び出していくことが失敗や、ダメだったり

それで愛される資格がなくなるわけではないはずだ。

 

そうだったな。。

 

それでも道中、不信感と疑いが何度か上がってきた。

 

やはり輪島で見たようなやりとりが現れたりして、

自分の疑いがそのまま反映されていたのだと思う。

 

それでも信用するしかないんだよ。

 

信頼して神に委ねる。

 

無事撮影が終わり、

私は一人、みんなと別れて帰路に着く。

 

私にとっては、ここからが始まりだった。

 

失ってしまった、寂しい、孤独、無価値感、悲しい、もう価値がない、、。

 

みんなとハグして駅で別れ、

帰りの新幹線で、頼りにできるのは聖霊だけになった。

 

自分は愛されていない、自分で愛を断ち切ってしまったと信じていて

ずっと号泣していた。

 

本当に私はこの距離を移動したのか?というほど映像も時間も止まっていて、

しばらく悲しみでいっぱいだった。

 

愛されていることを知りたい。

それが目的なのに、

 

神に愛されていないと信じている。

失ってしまったと信じている。

疑っている。

そう決断していることを正直に認めて、

 

ここまで与えていただいた奇跡を思い出しながら、

 

それが間違っていることを望むと

もう一度意欲を差し出そう。

 

信頼しようと何度も思い直す。

  

それでも

帰り道、ほとんどそんなふうには思えなかった。

 

愛されてないという思いだけだった。

 

そのまま運ばれていった。

 

それでも旅の後も、導かれていった。

愛されているということに。

  

だからもう一度、

聖霊を信頼して、従っていきたい。

 

神の愛に身を委ねていきたい。

 

 

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静岡撮影旅④宿でのエクスプレスセッション

うまくやるために兄弟を利用して、

できなくなると怒り、攻撃、踏み倒そうとする。

 

自分が不利に立たされるや否や、

怒り、攻撃する。

 

超えていこうと意欲は持ったけど、

また同じことを繰り返してしまった。

 

頼りになるはずの賢太さんが、深い闇や罪悪感が上がっていて、

コンビニを探すなど、ナビのフォローをする。

 

れいさんも深い闇が上がっているのだろう。

 

させられている感が上がって、

イライラしていて、自暴自棄になってナビしようとする。

 

賢太さんは助手席に座った方が良いのか?と浮かんだが、

言い出せなかった。

 

またインスピレーションか分からない、という葛藤。

あれだけ、打ち明けること、と教えてもらったのに。

当事者になるのが嫌なんだ。

 

ああ、またやってしまった。

ラファエルが嫌うこと。

 

全体のために、とか言いながら、

自分に不利益になることになると、途端に攻撃しだす。

 

全体を潰そうとしにかかる。

 

やっぱ口だけだな、、。私は。

 

どうせ深い闇なんてわからない。

やっぱり賢太さんやれいさんの癒しのフォロー役かよ!という思いが湧いてきて、

聖霊に対する不信感、疑いが上がる。

 

輪島でも繰り返しているので、そのまま怒りに止まりたくないと思った。

 

宿に着くまでナビに専念したけど、

やっぱり私は役立たず、みたいに感じていた。

 

本当は、そういう時こそ、

聖霊を信頼し、チューニングする踏ん張る時だ。

 

宿に着いたら、

想像していた通りのラファエルの反応で、予想していた展開になっていった。

 

すでに決まっていた。そう感じる。

 

いつも頼りになるはずの賢太さんが、頼りにならないという知覚が起き、

イライラしていたし、

逆に優位に立てるチャンスみたいにも感じていた。

 

弱いものをふみ潰したくなるような衝動もあった。

 

どちらも本当の私ではない。

 

やはり、ここでも

リアルではない、と時々感じた。

 

どれもリアルではない。

 

聖霊が用意してくれたエクスプレスセッション。

自分に正直になること以外、求められていない。

 

いつもなら端っこに座るところだが、今日は違った。

 

2020年9月リトリートの時は、カメラは聖霊だと意識していた。

今回はそれをすっかり忘れてしまっていたので、下ばかり向いてしまった。

 

撮影前に、全体のためにお使いください、とずっと祈っていた。

 

話しながら、

ああ、ここまでのすべてが繋がっていたんだな、、と感じていた。

 

聖霊が導いてくれていた。

 

深い闇が分からない、とかインスピレーションが分からない、、というのも、

それがインスピレーションかどうか葛藤することに留まることで、

打ち明けようとすることを避けていたからだ。

 

感じていないはずがない、闇も。

深い、浅い、が問題なのではない。

 

光に闇を捧げていくことをしたくないだけなんだ。

 

その場にいる兄弟に助けられながら、

愛を阻む障壁を光に捧げる時間を、聖霊から与えていただいた。

 

大雨の中、何時間もずぶ濡れになって撮影するラファエル。

 

黒いガムテープで穴を塞いだ雨ガッパを着て、

靴は中までびしょ濡れ。

 

自分も撮影用にレインコートを買ったが、撮影のためではなく、自分のためだった。

 

しかもラファエルが着ているものより高い。

 

とことん、私は自分のことしか考えてない。

 

大雨の中、何時間も7台ものカメラをチューニングする

そのラファエルの神に献身する姿を見て、恥ずかしくなる。

 

こんなにも神から与えられている。

 

それに答えられたか、分からない。

心を最大限、全体のために聖霊に預けられただろうか?

 

意欲は差し出していた。

どうぞお使いください、と。

 

この撮影中も、リアルではない。と教えてもらっていた。

 

正直になること。

 

隣にいる賢太さんが打ち明けてくれたので、私も打ち明けた。

 

聖霊と兄弟を信頼して。

 

聖霊がすべてアレンジしてくれた。

 

心を。

 

賢太さんに、あの嬉しさ、感謝を感じた。

 

旅の最初、私と繋がりたくないとエクスプレスをしてくれた時に感じたのと同じように。

 

聖霊のありがとう、を。

 

洗い流されていったようだった。

 

撮影後、のり子さんの横顔をちらっと見ると、

微笑んでいた。

 

それが嬉しかった。

 

 

最後のショット。

 

「愛は美味しいね」の象徴のシーンに感じた。

 

神に養われている。

 

すべてが、聖霊から与えられた奇跡だった。

 

ありがとうございます。

 

 

 

静岡撮影旅③台湾料理屋でのエクスプレスセッション

宿に行く前に、台湾料理屋に立ち寄る。

 

そこで賢太さんから

車を駐車し直したいので、一緒に来て欲しいと言われた。

 

私はペーパードライバーなので、運転の感覚がまったく分からない。

危ないと思ったら止めてくれるだけでいい、と言われた。

 

確か狭いから?と言っていたような気がするが、

私にはなぜ駐車し直すのか分からなかった。

 

だけど運転する人にとってはそうなんだろう、そう思った。

 

そこより前に駐車すると言っていた。

 

実は私は

そこよりも、横の方なんじゃないか?と思ったが、言い出せなかった。

というより、小声で話した。

 

それがインスピレーションなのか分からなかった。

 

前に止めると、店の女の人が勢いよく出てきた。

入店した時とは明らかに表情が違って、目を向いて怒っている。

そんなところに止めないでほしい。というようなことを言われた。

 

他に1台アルファード車が入ってきて、

東南アジア系のいかにも怖そうな男の人が駐車に入ってきて、

わたしたちが止めていたところにキュッと止めた。

 

そこで先程の横側に泊めることになった。

 

ああ、おかしいな。

これは罪悪感感じろ劇場だな、、と思った。

 

さっきの穏やかそうな店の女の人が目を向いて怒っているのが、おかしい。

しかも、あそこに泊めるなという割に、そこに止めないでという表示が一つもなかった。

 

少し恐怖を感じていたが、

ごめんね。と職場で話すように女の人に話して、

心のスペースを保とうと思いながら、車を止め直す誘導をした。

 

 

そのようなことがあった後、

まず賢太さんが深い罪悪感を感じているとみんなの前でエクスプレスした。

 

それを聞きながらも、

私はエクスプレスすることなんてないし、するつもりがなかった。

ダンマリしていたかった。

 

しかしそのために私はここに導かれているのだから、

感じたことを話そうと思った。

 

賢太さんに続いて、自分もエクスプレスする。

 

まず、横側に停めることがインスピレーションか分からなかったけど、

それを言い出せなかった。

そう話した。

 

でもこうは言えなかった。

 

本当は、小声でこっちじゃない?とつぶやいた。

なぜ小声だったかというと、

きっと賢太さんは私が何言っても聞いてくれないだろう。

どうせ、聞く耳持ってくれなそうだな、、と思ったから。

何かそのように感じていた。

 

私がやります。

あなたの助けは必要ありません。と思われているような気がしていた。

 

そこまでspeak upできなかった。

 

深い罪悪感を感じている本人の隣で言うのが嫌だった。

自分が悪者になりたくなかった。

いい人を保ちたかった。

 

聞こうとしない、、なんて、私じゃん。

あの店の女の人の、は?何やってんの?という目。

あれ、いつも施設でわけわかんないことするおじいちゃんに向けてる私自身の目だった、

と後から分かる。

 

それを、そのまんま、

私わかりました、という自己弁護なしに話すことが怖い。

 

ただ、あなたのことをそう感じました、と口に出すことが。

 

 

だけど、後になってもそれを言い出せなかった。

 

その時言えたことが、精一杯だった。

 

言えたこと自体、私には奇跡だったかもしれない。

 

インスピレーションか、分からないんだ。。

インスピレーションだと感じたとしても、それを話すこと、speak upすることが怖い。

間違うことが怖い。

と私は打ち明けた。

 

そうしたら、ラファエルがこれを話すのに恐れを感じているけど、、と言って

リビングミラクルズであったことを話してくれた。

 

ソランが象の置物?像を運ぶと言った時、

行為者としてやろう!やろう!としていることをラファエルは不安に感じた。

 

だけどそれをソランに言わなかった。

 

そうしたら、ソランはその象の彫像を落として壊してしまった。

 

またソランが運転すると言った時、

行為者としてやろう!やろう!としていることを、ラファエルはまた感じた。

 

だけどまた、ソランにそれを言わなかった。

 

そうしたら今度は、ソランは車をぶつけてしまい、壊してしまった。

 

それを全部リサに話したら、赦しましょうと言われたけど、

ラファエルは罪悪感を感じた。

 

感じたのに言わなかった、、それが今の自分だと思って聞いていた。

 

ラファエルは、コースの中の言葉を話してくれた。

 

Communication ends separation.

コミュニケーションが分離を終わらせる。

 

この怖いと思っていること

 

感じたインスピレーションを口に出していくこと、

相手について感じたことを口に出していくこと、

コミュニケーション。

それをやっていくことこそが、分離を終わらせるんだ、、と。

 

そう聞いた時、、

ダンマリしていること。

口を閉ざし、口を紡いでいることこそが安全だと思っていて、

 

あまりにも言われたことのその反対を信じてやってきたので、

愕然とした。

 

それが分離を維持していたことの原因だったのか。

自分でそうしてきた。

 

涙が止まらなくなった。

 

こう思うんだけど、、感じるんだけど、、。

それを言うのは本当に怖い。

 

Noと言われるのが怖い。

 

ラファエルがはっきり日本の映画のインスピレーションを受け取ったけど、

最初、周りのみんなにNoと言われた。

だけどその後のり子さんやカースティンが現れ、

Davidに話したら、Yesと言われて号泣したと話してくれた。

 

のり子さんからこう言われたと思う。

 

この道を知っていることと、実際歩むことは違う。

 

分からないけれど、

何かに触れて、心の奥底から何か込み上げて泣いていた。

 

何度も同じような話は聞いてきたのかもしれない。

 

だけど、本当にそれをやって来なかったとわかる。

 

 

ラファエルが、

Take me homeのトレイラーで撮影した1シーン。

 

ソランが膝下を両手で何度も擦るシーンがある。

 

監督のフランシスから、

カメラは固定したままで、と指示があったのにも関わらず、

ラファエルはインスピレーションに従って動くままにカメラを動かし、撮影した。

そうしたら後からフランシスにいいね、と言われ、トレイラーに採用されることになった。

 

その話を聞いた時、

私はたとえばのり子さんやラファエル、目上の人や頼ろうとしている人に

こういうふうに感じるんだけど、、と

インスピレーションを話すことをとても恐れているんだ、と思った。

 

いや、誰にでも、だ。

 

その人に逆らうように感じ、自分の安全地帯が保てなくなるから。

 

周りの目をうかがいながら、インスピレーションについて打ち明けないでいる。

 

コミュニケーション取らないできた。

 

本当にそうだな、私。

 

 

それをやめていくことこそが、コースなんだ。

 

それを聖霊は求めている。

 

 

You are the oneの子供のTシャツを見た時、

ラファエルは、こういった。

 

コースの「本」なんて投げてしまえ!

表に出ていくんだよ!

 

何度も大きな声で言っていた。

 

 

秘めないで、打ち明けていくこと。

 

心を打ち明けていくこと。

 

兄弟を信頼して。

 

 

帰りに、店の女の人に声をかけると、

残り物を入れるパックや輪ゴムを持ってきてくれた。

 

ありがとう。 

 

 

静岡撮影旅②運転してるのは誰?

車を受け取りに行き、 のり子さん宅へ届ける。

 

賢太さんに運転してもらう。

私は完全にペーパードライバーなので、運転の仕方はすっかり忘れた。

 

どうやって運転手のフォローをしたらいいのか分からない。

運転する人の思いが分からなくて、

話したら邪魔なのか、話した方がいいのか分からない。

 

フォローしなくてはいけない。とか逆に、

私はいなくていいんじゃないか?邪魔しかしてないと思う。

 

どちらも運転手にとっては邪魔な思考に違いない。

 

助手席や後部座席ばかりなことに、罪悪感を感じている。

運転手に大変なことばかりさせて、すみません。というように。

 

でもろくに地図も読めず、ナビの操作もできず、ナビすらできない。

その繰り返しだった。

 

次の日、静岡へ向かう途中の高速道路のサービスエリアで休憩した。

 

そこの休憩所に

数羽のツバメが飛んだり、羽を休めていた。

 

わあ。。鳥だ。

 

すぐに賢太さんから教えてもらったあの、

「愛は美味しいね!」

を思い出した。

静岡撮影旅①愛は美味しいね - 私は知覚に問題があります

 

愛は美味しいねって喜びながら、愛を受け取っている。

 

自由に空を飛び回っているつばめたちを見ながら、

それを思い出して、嬉しかった。

 

今思うと、Restさせてもらっていた。

 

restfulな時間を与えてもらっていた。

 

鳥の話を車でみんなに話したかったのだけど、

どうにも口から出てこない。。言えない。

 

そんなこと言う必要ないだろう、、

無駄だ、恥だ。

自我的に自慢したいだけだ。

もっとチューニングして言うかどうか、聞かなくては。

言ったところで、

あ、そう。シーーン、となって無視されるだろうと思っていて話せなかった。

 

 

話せたのは、次々に現れる聖霊からのメッセージを受け取った後だった。

 

高速で通り過ぎていくトラックに、聖霊からのメッセージがたくさん散りばめられていた。

 

「安全を光に託して」

 

ああ、そうか。。

 

この道、運転しているのは私たちではないんだ。

 

託す。

 

そうだ。

 

これを思い出すと、深い安心感が広がっていく。

 

次々と通りゆくトラックにメッセージが現れていく。

 

クロネコヤマトの親黒猫が子供猫をくわえている絵。

 

神に養われている。

 

神に託す。

 

メッセージに、愛されているのを感じていた。

 

もっと見たい。

 

コンビニで駐車した時、

oneと言う文字が書いてあるトラックがみんなの前を通り過ぎる。

 

そのあと見たのは、

隣のファミリーの小さな男の子の背中のTシャツの文字。

 

”You are the one"

 

その小さな男の子がこちらを振り向き、

目がしばらく合って、目が離せなかった。

 

みんなにすぐ教えた。

 

のり子さんがマトリックスを観たと話した。

 

ああ。

 

だけど、私は覚えている。

それを聞いた時、一瞬、嫌だ、と感じた。

 

一つ、は嫌だ、それは嫌だ、と。

 

それでも

11時11分の文字を賢太さんと同時に見て言うと、ラファエルが”Oneness"と言った。

 

その時も、奇跡を見れたと喜ぶと同時に、

一瞬、嫌だ。と感じた。

 

嫌だと感じようが、すでにそれなのだ、という感覚もあった。

 

これほどまでに見せていただいていて、

見せていただけるほどに愛されている。

 

何を感じていても。

 

きっとそうなのだろう。

 

 

美保の松原の海岸の撮影に入る。

 

松原というと、

例の”われは海の子”を歌うおばあちゃんの歌詞の中にある。

 

「われは神の子」に聞こえる。

それを思い出す。

 

聖霊は体を使って、動かすことで教えてくれていたのだと思う。

私は頭悪いし、体を使うと忘れにくいから。

 

心を一つにする。

 

それを感じていて、自然に足並みが揃ったりした。

 

私たちがどこにいるのか、教えてくれていたのだと思う。

 

ここでの撮影は確実に次に繋がっていった。

 

聖霊のプランに間違いはないんだ。

そう後になって思った。

 

 

この旅の間、

リアルではない、と何度も響いてきた。

 

宿に着いて準備している時も、その宿で撮影中も。

 

聖霊はリアルではないものを使って、

何が本当なのか、、真実に導いてくれている、教えてくれているんだ。

 

 

静岡撮影旅①愛は美味しいね

賢太さんのブログを見て、

同じ場所にいて同じようなことを感じたとしても、

それぞれの断片がspeak upする必要があるという話を思い出した。

 

そうなのだろうか。。

私にはspeak upする価値がない、、という思考が現れる。言いたくない、無理だ。

だけど言う必要があるのだろう。

誰のためでもなく、自分のために。

 

忘れようとする私は、思い出すことができるのだろうか?

 

泣けてくる。

兄弟が覚えてくれていたから、思い出そうとすることができる。

信頼して思い出してみる。

 

”私と一緒に思い出してごらん”

聖霊はそう言って、私の手を取ってくれている。

 

神の愛を思い出したい。

今もう一度、その意欲を捧げます。

 

。。。。

まずこの静岡撮影旅が前倒しになり、

急遽、賢太さんと車を借りる方のところへ取りに行くことになった。

 

その前日に賢太さんから

私と繋がりたくないという感情が上がっているというエクスプレスを聞いた。

 

それを聞いて、

嬉しいー!嬉しいなあ。

打ち明けてくれてありがとう!

嬉しい。嬉しい。あなたの思いを聞かせてくれてありがとう!

 

ありがとう。ありがとう。

そう感じていた。

 

のり子さんを通して、私に対して嫌だとか困るというラファエルの思いを聞いた時や、

輪島ののり子さんのエクスプレスの時みたいに。あの奇跡と同じ。

 

話していくうちに、

どこからか話の途中から、頭が垂れ下がってきて、ずっと頭があげられなくなった。

 

車を貸してくださる方に感謝が湧いてくる。

 

ああ、、、ありがたい。

 

神の子全体の目覚めのために、お借りします。

神よ、この車を差し出していただいてありがとうございます。

 

大切に、使わせていただきます。

 

そう感じていると話したら、

賢太さんが全部なんだよと話してくれた。

 

最初抵抗があったけど、

それを感じている対象物やこの時間、

そう感じる自分だけを特別にしたかった。

 

だけど車だけでなく、おにぎりも、ラファエル、のり子さんや兄弟との縁も

すべてのすべてが、神からお借りしているものなんだ。

 

今私は、目の前のことだけしか見えていない。

 

それさえも見えていない。

 

今、車を差し出してくださる方と車にだけ

心から神に、ありがとうございます!と頭が下がったけど、、、

 

全てが神からお借りしているものなんだ。

それが今、私にはわかっていないだけ。

 

神の子全体の私の目覚めのために、

すべてお借りしているものなんだ。人の縁も。タイミングも。すべて。

 

神からお借りするという謙虚さを、最近はすっかり忘れていた。

この時に比べると、神に自然に頭が下がるという謙虚さを、今も忘れている。

 

これは2019年7月に献身合宿に切り替わった時、教えていただいたことだ。

のり子さん宅をマインドトレーニングの場として五井先生から、イエスからお借りします。

そう祈るのだ、と。

 

やろうとしてやれないことだけど、

頭が下がる思いをまた感じさせていただいて、思い出させていただいてありがたかった。

 

もう一つ。

好物のフライドチキンを食べるとき、

 

神に養われている、

巣で待っているぴよぴよのひな鳥の私が

口を開けて神からいただくように、

 

「愛は美味しいね!」

って言いながら、食べるんだよ。

 

自分が自分に赦すんだよ。と賢太さんに教えられた。

 

チキンを食べてはダメなのではなく、

いいんだ。食べていいんだ。

 

「神の愛は美味しいね!」

 

そう言いながら、食べるんだよ。

 

とても優しく胸に響いた。

 

そうなんだな。。

 

ひな鳥の私が、

神に養われて口を開けて待っていて、

 

与えられた神の愛を

「愛は美味しいね!」

と言って、巣にいる他のひなたちと一緒に食べていいんだ。と。

 

これを聖霊から教えられた時、

これが私にとって今回の旅でも、とても大切なことになるとは思っていなかった。。

  

 

だけれども、、

 

「欲しい!欲しい!ちょうだい!ちょうだい!」と

くれよ、くれよ、願望丸出しでピーピー泣いていて、

毛がなくてひょろひょろで、

 

親に与えられるのを待っているだけのひな鳥の

口をポカーンと無防備に開けている姿を思い浮かべた時、

 

ひょろひょろでキモい。ダサい。恥ずかしい。情けない。

そんなのが私なんていやだ!と思った。

 

素直に、

おかーちゃーん!と言って、

「私は、

神からの愛が欲しい、愛を与えられたい、愛を受け取りたい、養われたいよ。」

と認めたくなかった。

 

私はそんなひな鳥です。。なんて認めたくなかった。

 

もっとしっかりしているはずなんだ。

ひょろひょろなんかじゃない。

 

それも感じていた。

 

すでに

おかーーちゃーーん!って言って、泣いているのにね。。

 

 

賢太さんと話していくうちに、

「目的についてはっきりさせておくことが大切だ」と口から出た。

 

神に愛されていることを受け入れたい。

知りたい。

神に養われていたい。

フランチェスコの映画で感じたように、

完全に今、すべての神の子が愛されているんだ。

だから、そのように愛されていたい。

知りたい。

 

そう話した。

 

信頼して神にすべてを差し出す。

そう感じながら、兄弟と一緒に車を受け取り、届けることから始まった。

 

 

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自分が赦せない

一番気になっていることを、一番後回しにしていた。

 

このことを話すことが、ものすごい恥だと感じている。

 

3日には仕事が入っていた。

この旅の最初のプランでは、仕事にまでは戻れる予定だった。

 

ところが、延長になりそうになった。

 

仕事、休んじゃえば?と言われたが、

いきなり仕事を休むなんて、私のプランにはなくあり得なかった。

 

それでなくても職場の人が少なくて、無理に決まってる。

責められるのも嫌だ。

そう決めつけていたから、

仕事を突然休む、なんていうことがはなっから心に入ってこない。

 

まさか、それがガイダンスだなんて考える余地がなかった。

 

後から、もしかしたらガイダンスだったのかもしれないと思ったけれど、

それがガイダンスだったとしても、従う気がなかった。

 

結局、新幹線に乗って一人帰ったのだが、

それを決めた時から、プツッと私の中で終わってしまった。

 

奇跡があったと思うけれど、

もうすでになかったことになっている。

 

自分で自分が赦せない、情けない。

無価値感を隠すために、怒りをぶつけようとしている。

 

自分の首を自分で締め、

暗闇にお前は沈んでろと自分で言っている。

 

聖霊のガイダンスを聞き、従う。

 

それだけなのに、

それをすることを避けるために何か語ったり、言い訳しかしていない。

立派なことだけ口走り、

結局ガイダンスが来たところで、それは嫌ですと言って、行動が一致していない。

 

自分に優しく、と教えられたことを思い出したけど、今は無理だ。

 

馬鹿だな。

恥と無価値感を感じている。

 

 

私にはspeak upする価値があるのだろうか?

今回の静岡〜加賀の撮影の旅を思い出すと、

 

エクスプレスセッションを含めて

私は今こう感じているとか、思っていることを話す機会が何回かあったけど、

 

言いたいことや感じたことをほとんど誤魔化しながら話していて

自分のコアの思いに触れず、

 

本気で透明で、正直になれなかった、、と後悔がわく。

 

ああ、これを正直に話さなかったな、、と思い出すと泣けてくる。

 

自分の思いや感じていることを知らないことにして、

また蓋をしてしまった。殺してしまった。

言いたくないから。

 

怖いから。

 

口に出してしまうことで、関係性が崩れることが。

 

全部を言う必要がないけど、

speak upの機会があった時でさえ、それを口に出そうとしない。

隠してしまう。

 

怖い。

 

インスピレーションにしても、絶望や悲しみだとしても、

自分が感じて思ったことを口に出すことが。

 

本当は口に出しても大丈夫で

愛されていることを知ってしまうことが怖いのかもしれない。

 

自分には価値があるのだろうか?

 

私が感じていることや思っていることを話す価値が。

 

自分にはそんな価値はないと思っている。

 

みんなと別れる時も、感じていることを誤魔化すために、

思ってもないことを言った。

 

とても悲しい。

 

どうして悲しいのか分からない。

 

ただ私は今悲しいんだ、と認めたい。