私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうかあなたに打ち明けさせてください。

本気で聖霊にスペースを開けていなかった

聖霊が怖い。

 

必死でスペースを開けようとするけど、

頭でごちゃごちゃしゃべってしまう。

 

それでも、

私自身としてみたい。

聖霊から何と言われているか、一緒に受け取りたい。

 

でも怖い。

 

当てつけるように

彼が誰なの?と聞いたら、

 

「あなた」

 

と響いてきた。

 

間違っているかもしれない。

 

でも、

そこからさらに広がりを感じ始めた。

 

私とあなたは一つなんだ。

 

安心感。

 

いつものように、

清拭と更衣する。

 

ゆっくり、丁寧に。

 

「ありがとう」

 

そう響いてきた。

 

誰が誰に言ってるの?

 

それでも、ありがたい。

ありがとう。

 

させていただいて、ありがとうございます。

 

感じたのはほんの束の間だったと思うけど、

私の望みに意欲を差し出す機会を与えていただいて、

ありがとうございます。

 

傍目から見るとかなりダメダメだけど、

もう、それでもいいや。

 

あと、

これだけ与えられておきながら、

本気で聖霊にスペースを開けることをしていなかった。

 

怖いけど

聖霊にスペースを明け渡す本気の努力をし続けたい。

 

愛と平安を望むから。

聖霊が言っていることを受け入れて、正気になりたい。

私がそう望むから。

 

今朝聴いた生配信でDavidが言っていた

サレンダー

という言葉を今思い出した。

 

 

自分の手柄にしていました

もう一つ、先日書いた記事のこと。

 

何も触れることができない

 

あの感覚はミーティングの時に

クパチーノのSt.Josephの話を聞いて感じた、と書いたけど、

 

祥子ちゃんが話をしてくれた時にも感じたんだ。

 

彼女が神に仕えたい思いでファンクションをしていて

怒りが湧いたり、ダメだったように感じていたとしても

 

それがあなたではない

それがあなたに触れることはできない

 

という言葉に表現できない何かを。

 

それを祥子ちゃんの中にも感じたということはスルーして

ヨセフだけにとどめて、自分一人で感じられたことにしていました。

 

横領していました。

 

神様、

祥子ちゃんを通じてあなたが見せてくださったんですね。

 

ありがとうございます。

 

 

恐い

自分で脚本を描いていて笑ったと書いたけど、

とても恐いです。

 

私は関係ありません、という部外者のように

 

彼の外側に立って、

何怒ってんの?という目で見ていました。

 

自分自身として迎え入れることの

まったく逆をやっていました。

 

ずっとそうしてきました。

 

腹を括って、

もうそれはやめたい。

 

どんな彼が目の前に現れても、

 

私自身として見たい。

 

エス

あなたが私の代わりに彼を見てください。

あなたがなさしめてください。

 

私はそれを引き受けます。

 

 

怒り

昨日、仕事中に

ものすごい激しい怒りをぶつけられるということがあった。

 

私を含む、そこにいる人たちへ向けてだったけど、

言葉にならない声や全身で表現していて、

びっくりしたし、怖かった。

 

あんなに激しい怒りの感情があったんだ。

 

そんな感情なんて、まったくないだろうと思っていた。

 

そして、

そこからその方と一対一になり、

沈黙が数時間続いた。

 

怖い。

 

ベッドに寝ているので、

そこから立ち上がって殴られることはないにしても、

 

放棄して逃げたかった。

 

祈るしかできず、

近づくと、いいと言って手を振り払ってくるので、

 

やはり椅子に座って、祈るしかなかった。

 

その方を、自分のいいように利用していた。

 

何もかも打ち捨てたくなる思いがわいていた。

 

自分の闇に直面したくない。

 

 

その時は、ただ

聖霊に助けを求めて祈っていた。

 

ここの仕事中、初めて本当に祈った。

 

けど

私の愛と助けを求める懇請だ、という考えも浮かばなかった。

 

その後、祈り続け、

愛を持って見たい。と思い、

 

目の奥を見た。

落ち着いていたので、そのままオムツ交換と清拭に入る。

 

まだ怖くて、

いつ怒り出すか分からない。

もちろん本人が嫌ならすぐにやめるつもりだった。

 

でも

その頃には穏やかで、いつものように手伝ってくれたりした。

 

相手に見えるけど、私自身なんだ。

 

今まで以上にそう思い、

 

これはイエスの体なんだと言い聞かせ、

丁寧に拭いた。

 

行きがけの電車やバスの中で、たまたま気になって見た

生配信でDavidが言っていた、

マザーテレサもたくさん闇を超えていった、というニュアンスが残っていた。

 

何ヶ月か前にマザーテレサへの手紙という映画を見た時、

道端に寝転んでいる死にゆく人、息絶え絶えの人がイエスに見えた。

 

マザーテレサたちが、

あと少しで息を引き取る人たちに親身になって介抱しているシーンの時、

「手足となりなさい」と聞こえた。

 

なのに全然、イエスの手足として

やろうとしていなかったよ。

 

自分が家族に怒られるんじゃないか、といつもビクビクしながらやっていた。

 

実際注意されることが多いし、

要求されるけど、それはご本人にとってどうなんだろうと思うのに、意見できない。

 

矛盾を感じていた。

 

けどそうしなければならない。

私の身が危うくなるから。

 

そんな思いだったよ。

 

今回、感情をぶつけられるということに直面できて、

自我は冗談じゃない、嫌だというけれど、

私自身の愛と助けを求める懇請を見せてくれてありがたかった。

 

私自身を見捨てていた、ということに気付きたくなかった。

 

私の泣き叫び。

確かに、あの怒りは私の中にあるな、、とその後、自分の中にあるのを認めた。

 

私自身が

私の泣き叫びをまだ無視し続けていることに

気づかせてくれてありがとう。

 

そして

マザーテレサへの手紙で受け取った、

 

相手がイエスに見えたこと。

手足となりなさい。というイエスの言葉。

 

私は精神疾患認知症です。

 

だから

どんなに頑張って忘れないようにしても無駄だから、

 

私は、それとして生きたい。

それとして生きます。

 

家に帰ってから、

そこに至るまで

明らかに私がネタ帳にネタを書き、全員のセリフが自分自身で

用意周到に準備して決めていたと分かり、後になって笑ってしまった。

 

けど本当に怖かった。

 

先週の勉強会の休憩中、

母からキッチンで

「イエスも復活したんだから、あなたも復活しなきゃね。」と言われた。

 

はい。と答えた。

 

ありがとうございます。

 

 

あまりにも違うあなたと私

あまりにも違うあなたと私

というレッスンでした。

 

逝く日や時間を本人が決断している。

本当にそうかもしれないと思った。

 

今逝った肉体と

目の前にある、

普段と変わらない別の人の肉体が違うと思っている。

 

前者の方が、神聖だと。

価値がある、と。

 

だから

目の前の元気な人のことはスルーしている。

 

なぜ同じように見れないのだろう。

 

私は相当おかしいのかもしれない。。

 

私は精神疾患患者です。

 

治療が必要です。

助けてください。

 

神聖な関係だけを望みたい。

 

ほとんど自分自身として見ていなかった。

 

関わらせていただいたのに、

いただいたことの何万分の一も受け取れなかったと思う。

 

それでも、

ありがたい。。

 

ありがとう。

 

何かから解放されて、

とても安らいでいて、

穏やかで、

平安の中にいる、

天国にいる。

 

そんなお顔だった。

 

今まで見たことがないお顔だった。

  

今、平安の中にいるんだよ。

 

そう教えてくれているかもしれない。

 

こないだの勉強会で、

のり子さんが話してくれた相手を自分として見た話を思い出した。

 

その時、彼の中に感じる感覚は、

クパチーノのSt.Josephに感じた、

 

目の前に何が起こっているように見えても、

何も触れることができない。

 

あの感じと同じだ、と後から思った。

 

ほんの短い時間だったけど、

 

その方の家族のように見える私自身を

そのように見る機会を与えられていたんだ、と。

 

それが

聖霊に代わって見てもらうということなら、

私はそれを望む。

 

そう見たい。

 

見て欲しい。

 

カメラファンクションの時のように。

 

マインドトレーニングの場、

ほとんどそうせずに通り過ぎている。

 

もう一度、

意欲を差し出し、決断したい。

 

ありがたい。

 

ありがとうございます。

 

 

あなたが代わりに見て欲しい、の意味

4/26今日の勉強会

 

よく

あなたが私の代わりに見て欲しいって言ってきたけど、

 

その意味が分かっていなかった。

 

私が望んだので、

そのように見る機会を与えられていたのに。

 

彼が教えてくれている。

人生の最期を迎えようとしている方が、教えてくれているように、

 

私は正気の目で見たい。

 

私はどうやら狂っているということに

ようやく気づき始めました。

 

あなた方が見ている見方を教えて欲しい。

 

犠牲者も加害者もあり得ない。

 

私たちは神と一つだから。

 

その見方でしか

自分も相手も見たくない。

 

恩返ししたいんだ。

 

だから、

正気になりたい。

 

目覚めたい。