私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

撮影ファンクションという特別性

私は仕事があるので、途中で一人抜けることになった。

みんなと一緒に居られる時は感じなかったような、悲しみや孤独、不信、怒りが湧いてきた。

 

兄弟に怒りを投影する。

 

なんで闇が上がっている兄弟に付き添わなきゃいけないんだ。

私にはよく分からないんだよ。

どうせれいさんや賢太さんの癒しの踏み台に過ぎないんだろ、私は、

というやさぐれと怒りと、悲しみ、孤独感が渦巻いていた。

 

帰りの新幹線で

ずっと頭でぐるぐる回っていたTake me homeの歌を聴きながら、一人号泣していた。

 

今この瞬間、もう一度、神を信頼しよう。

 

あのフランチェスコの映画を見た時に感じたように、

全ての夢見る者の断片に完全に今、愛が与えられていて、愛されているのを感じたじゃないか。

 

そう何度も自分に言った。

 

次の日、朝出勤するときに

どうせ私には癒しは起っていない、と思っていたら、

「癒しは起っている」とふと感じた。

 

それでも離れてしまった、不信感、絶望感、情けなさ、悲しみが抜けずに職場に着く。

 

みんなに分からないように、昼食を泣きながら配膳していた。

 

情けなかった。

ここにいることが申し訳なかった。

 

愛を持ってお世話しなければならない職場に、私は相応しくない。

ここにいて、みんなに申し訳ない。

 

私は愛に値しない。

こんな人をお世話するなんて私には向いていない。

愛を与えることも、

愛を受け入れることも、

私は値しない。

愛するに値しない。

愛を表現するに値しない。

愛を与える資格ない。

そんな資格はない。。

受け取るも与えることも、愛に触れることが値しない。

 

 

そう感じながらも、体を動かしていく。

 

その日は、私が一番嫌いな利用者の誕生日だった。

怒りっぽくて、ワガママなおじいちゃん。

 

職員が何人かで

家族が用意したケーキを差し出し、

その人が大好きな男性職員も偶然出勤だったので、並んで写真を撮る。

 

私は手を叩いて自然に、

Happy birthday to youを大きな声で歌い出した。

職員みんなも一緒に歌う。

 

おめでとう!と言うと、

ありがとな、、と言ってそのおじいちゃんがほろっと涙ぐんで、

嬉し恥ずかしで、照れていて「お前らも食べな!」と缶でできたケーキを差し出す。

 

自分の誕生日がめでたいとか、

人の誕生日がめでたいなんて思ったことはほとんどない。ましてや嫌いな人の。

 

だけど、

家に帰ってからも涙が止まらなかった。

 

ありがとな、、とうるうるしながら言ってくれたことが嬉しかったし、

彼と一緒にお祝いできてよかったと思った。

 

歌を歌うのも、聖霊がなさしめていただいたのだろう。

内側から一つとして広がりを感じ、自然にそうした。

 

私が歌おうとするわけがない。

 

オムツ交換をしながら、あるおばあちゃんと一緒に

「われは海の子」を歌っていた。

 

この方が歌う”われは海の子”を聴くと、

「わーれはかーみのこ」と聞こえるんだよな。。

 

泣けてくる。

 

その人の居室の前に書道で

他の方が書いた「われは海の子」の歌詞が貼ってあったのに、その日初めて気づいた。

 

こんなところにこの歌の歌詞があったのか!

まるで、

「われは神の子」なんだよ、忘れないでね。

と言われているようだった。

 

”我が懐かしき住みかなれー”と

一緒に歌う。

 

ありがたい。。

 

いつも私がイラついてしまう103歳のおばあちゃんが、

そっと私の手に手を添えてくれた。

 

みんなの愛と癒しを感じて泣いた。

 

それ以外にも、みんなからたくさん助けられ、癒しを与えていただいた。

助けていただいた。

 

家に帰って思った。

 

撮影ファンクションに特別性を見ていて、

仕事は違う、と思っていた。

 

撮影ファンクションの途中で帰ることで

私は癒しを受け取り損ねた。。と思っていた。

 

これは間違っているかもしれないけど、

仕事よりも、撮影を優先させて行くべきだったかもしれない。

その正当化をしているかもしれない。

 

だけど、

次の日撮影ではなく、仕事をしてみてわかったことがある。

 

全体の目覚めのために私をお使いください。

確かにそう祈った。

 

撮影ファンクションに対してだけ。強く。

 

でも私は間違っていた。

 

全体の目覚めのために、神の道具としてお使いください。という祈りは、

 

全ての兄弟の中にある、あなたの中の光にひざまずき頭を垂れて、

教えていただきたいです、

助けていただきたいです、

あなたの中にある光にひれ伏します。

 

あなたの中に神を認め、その光に平伏します。

あなたの光に敬意を表します。

 

あなたから神の愛を知ることを必要としているのは、私なんです。

助けが必要なのは私なんです。

 

そういう祈りだったんだ、と気づいた。

 

みんなのために立ってやる!という祈りではなかった。

 

全く逆だった。

 

すべての兄弟に仕えます。

かしずきます。

あなたの中の光に仕えます。従います。

私こそがすべてのあなたの光を必要としているからです。

 

そういうサレンダー、私の降参の祈りだった。

 

 

それに気づかせていただけたことが、私の救いです。

ありがとうございます。