私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

聞かせてほしい

 

今まで

勉強会でも合宿でもシェアしてきたけど、

人の話を聞く、ということが苦手だ。

 

母がおしゃべりで

子供の頃から

まったく私の話を聞いてくれない、、理解されないと思ってきた。

 

だから

私は攻撃されている、

発言の自由を奪われている、

私は被害者だ。

 

人の話を聞いている時、

私は聞かされている。

 

聞く前から

そのような姿勢で入ってしまう。

 

話の内容が何であれ。

 

 

 

みんなの話を聞いてはいるものの、

 

スルーしたり

 

自分ごととして聞いてきたつもりだったけど、

 

やっぱりどこか

聞かされている、という被害者意識がまだまだある。

 

 

えーー聞きたくないよ。

見たくないよ。

 

そうやって

耳を塞いできた。

 

自分や相手の思いや感じたこと、

 

私自身の愛を求める声、

泣き叫びに。

 

 

そんな私の中から

 

ここ数日、

ある思いが自然に溢れてくる。

 

 

 

「聞かせて欲しい!」

 

 

あなたの想いを

 

 

 

??

 

どうなってるんだろう?

 

 

今まで慣れ親しんできたものとは

まったく逆の思い。

 

 

「聞かせて欲しいんだ。」

 

 

ほら、今も。

 

 

 

金沢〜輪島1日目夜に

闇をspeak upしたのり子さんの横で聞いていた時、

あの心の奥から湧き上がってきた思い。

 

金沢〜輪島1日目夜の奇跡 - 夢から目覚める

 

正直に打ち明けてくれて、ありがとう。

ありがとう。

うれしい!

 

ここにつながっている感じがする。

 

 

7月にミーティングをみんなで頻繁にやっていったあたりから、

 

聞くということに

なぜか自然に興味がわいてくる。

 

 

あれだけ、

嫌だったはずなのに。

 

 

私はそれだけをやりたいんだ。

 

聞かせて欲しいんだ。

 

あなたの想いを。

 

 

そんな感じ。

 

 

耳をすます、ことも。

 

 

勉強会でのアドバイスを聞いて、

 

2回目のインセプションを見ながら

聞こえてくる音楽や

英語、

音に耳を傾け続けた。

 

 

今まで

聞かされるという被害者意識が強かったので、

 

我慢しなければならない。

勉強会はいつも長いからな。。と愚痴が出たり、

 

勉強会の録画を聞く時も、

いつも長いんだよ。。。とトータルの録画時間を見て嫌になったりした。

 

自分だってシェアする時間が長いのに、

兄弟に攻撃したり。

 

 

だから、

聞かせて欲しいという思いが

 

順子から自然に出てくることがありえないはず。

 

 

 

惹かれることをやってみる。

 

 

そう教えてもらったので、

その通りにやってみた。

 

 

最初は

今日の勉強会でのみんなのシェアを

ベッドに横になって聞こうと思った。

 

だけど、途中から

 

この聞かせて欲しい、という自然に湧いてくる思いから

顔出しして聞くことにした。

 

 

スペースを保って、

聖霊と聞く。

 

上がってきた感情を

通り過ぎさせる。

 

 

罪悪感、

胸の詰まり、

悲しみ、

苦しい。

 

 

またみんなの顔を見て

競争心がでたり、

 

怒りや

 

ようこちゃんが

絵を描くという

得意なことを聖霊に使ってもらえてうらやましいな、という嫉妬もでた。

 

まだまだ

思考でブロックしようとしていたな。

 

 

勉強会が終わって

ありがとうございました。とのり子さんから声をかけられて

 

みんなに手を振る。

 

 

終了後、

泣く。

 

 

終わってから、気づいた。

 

  

聞かせてもらう、ということは

 

与えることだったのか。。

 

 

話してくれたみんなから

 

与える機会を

与えられていた。

 

 

与えるなんて分からないけれど、

私が与えられていた。

 

癒されていたんだ。

 

私が。

 

そうだったのか、、。

 

 

みんなありがとう。。

 

 

今の今まで

勉強会やシェアを聞いてきたけど

 

聞かせて欲しいと心から思って

 

それを聞かせてもらう

ありがたい、という姿勢で聞いたことあっただろうか?

 

 

なかった。

 

 

よく兄弟がそういうことを口にしていたけど、

私は真にそう思ったことはなかった。

 

 

恥ずかしいけど、

正直に晒そう。

 

 

だから、

DavidやFrancisやのり子さんやラファエルが

みんなの話を聞いてよく

 

想いをシェアしてくれてありがとう!

と言っているのを聞いたりすると、

 

私は本当に心の底からそうは思えないよ。。と思ってきたし、

 

勉強会でのり子さん、

よくみんなの話を何時間も聞いていられるな、、と思っていた。

 

帰り道オンラインリトリートの時は

一つとして感じたり、

自分のことをみんな聞いてくれた、と思ったので、

被害者意識はそこまではなかった。

 

 

聖霊に聞くことも

兄弟の心の叫びやシェアを聞くことも

 

与えることなのかな?

 

 

私は逆を信じているのかもしれない。。

 

 

与えるって、

何か行動のことだと信じてきた。

 

与えることには限度がある、

限界がある、と。

 

 

ブログを書くことも与えることだと

勉強会で教えてもらった。

 

それをやってみて

だんだん

もっと与えたい!と思うようになった。

 

前に

ジェフリーだったかな?

与えるとはスペースを保つことだ、ということを言っていたのを覚えていたり、

 

6月合宿でラファエルが

スペースを保つことが真実を知ることだ言っていたことも、

 

自分でブログに書いていた。

 

 

与えるって

目に見える形のことだけではないのだな。。

 

  

何か

聖霊が私に伝えようとしていることや

 

私にさせよう

させようとしていることがあるみたい。。

 

 

与えたいんだ。

 

そう心の奥からpushが来ている感じがする。

 

 

それは

私が期待しているようなことや

 

成果、手柄、

 

過去の繰り返しではないんだな。。

 

 

決して減ったり

変わることがないような。。

 

 

 

喜びが増えて拡大していくような。。

 

 

順子には決して分からないような。。

 

 

こうやって書きながら

えーー聞くだけになるなんてふざけんな、、、という抵抗も感じているし、

 

罪悪感を感じている。

 

 

スペースを保ち続けることは怖いし、

 

まだ疑っている。

 

 

心のスペースを保つというと

 

エスに手を引かれて

空を飛んでいく感じがするなあ。。

 

 

飛んでいって、

 

エスに導かれて

帰っていく。

 

 

そんな感じ。

 

 

自由。

 

 

 

誰にも気づかれないかもしれない。

 

まったく状況は変わらないかもしれない。

 

100発打って100空振りかもしれない。

 

 

それでもいい。

 

 

それでも

聖霊についていきたい。

 

 

ハートが広がっていく感じがする。

 

自由で嬉しい。

 

こっちの方がいい。

 

 

正しさよりも

 

平安と愛を望む。

 

 

聖霊

どうか導いてください。