Be happy
昨日、旦那さんのわき腹痛の病院受診に付き添って、総合病院に行った。
本人がものすごく不安がっていたので
付き添って行った。
死につながる病気だったら、どうしよう、と不安そうだった。
なんとなく、インスピレーションで肋骨が痛んでいるような感じを受けた。
しかし本人は、まだ分からないからと言って、不安そうだった。
旦那さんは病院が大嫌いだ。
だから、本人の具合が悪くても、医者にかかることを避けてしまう。
延ばし延ばしになっていて、
痛みが強くなり、
わたしに急かされてようやく受診し、
検査に行くことになった。
彼は真っ青な顔になって、
診察室に呼ばれるまで待っていた。
結果、
肋骨の軟骨?に何か異常があるのでは?ということで、
内臓的には問題なかった。
ものすごく不安そう→今すぐ、死つながるということではなかったといって、
彼は安心する。
わたしも安心していた。
旦那さんの一喜一憂する様子を、聖霊と見つめる。
わたしはそれに対して、
何かあっても
あきらめるしかないな。。
どうしようもない。。
と思いつつ、
罪悪感を彼に、投影していた。
彼がいて、
彼にその罪があることにしていた。
待ち時間、何か読むものを、と持って行ったのが、
JCIMの加藤さんのDVDの小冊子だった。
ちょうど、
処方箋を待っている間、見ていた箇所↓
P34
病気の肉体が癒されたからといって、それは意味のある変化ではないというのが、
このコースの考え方です。
。。。
つまり、
「肉体の病気」という形が「肉体の健康」という形に変わっただけなので、一つの幻想の形が別の形の幻想になっただけ、というふうに考えます。
病院で、たくさんの人を見た。
車いすに、点滴を打たれながら、CTスキャンを待っている高齢の男性。
看護師さん二人にCTを取りにベッドごと移動させられている、高齢の女性の患者さん。
待合室で待っているたくさんの人たち。
CTの結果を教えてくださる、内科医の先生。
CT中、ベッドのシーツを替えている看護師さんを見ている
旦那さんと、わたし。
見ながら、
実態がないような、蜃気楼みたいな感じだった。
知覚は、平安だったり、喜びだったり、不安だったり。
映像と関係ないように感じた。
健康な身体と、そうでない身体。
「私の見ているものには、何の意味もない」
自分の意味づけしたものしか見ていない。
何事もなかったと言って、安心して喜ぶ旦那さん聖霊を見て、
ああ、
わたしは、
形のレベルでの変化に意味があると
しがみついているんだな。
冊子にあるように、
”幻想の中の様々な形の中に完璧な形を見つけ出しさえすれば、
幸せになれる”
ああ、
そう思っている。
真理に対する、抵抗だ。
はい。
抵抗しています。
そういうことに、しておきたい。
猛烈、そう思っています。
完璧な平安と愛を、恐れているんだな。。
ひたすら不幸に献身しているあなたは、まず最初に、自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。
奇跡講座T-14.II.1:2
喜びのない場所では、自分がそこに居ないと気づく以外にどのようにして喜びをみつけられるだろう。
奇跡講座T-6.II.6:1
ああ、そうだな。。
わたしは、神様の平安を望む。
だから、
正しさよりも、間違っていたことを望む。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
Be happy.
幸せでいよう。
みなさん神様、有難うございます。
神様、有難うございます。