私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

11月献身滞在で感じたこと

映画グラディエーターは、20代の頃から惹かれて何度も観てきた。

 

10月の献身滞在で、憎しみが湧いてしょうがなかった時、

なんでか「血を見たい」と口から出た。

 

そしてすぐに、このグラディエーターの剣闘士の流血しているような、生々しい血の色がサッと浮かんだ。

 

なぜこの映画に惹かれるのだろう?

 

ローマ帝国時代、剣闘士、軍隊に惹かれていた。

強くて正々堂々として、正義の将軍に惹かれ、軍の配下に入りたいと真剣に思っていた。

そして、鼓舞され、

または闘技場の観客と一緒に、同一化して歓喜していたかった。

血や決闘を見たかった。虎に食べられるところとか。外側から。

 

やられたけど、やり返して正義が勝つ、というようなシナリオが好きだった。

復讐することに快楽を感じていた。それが正義だと信じていた。

 

コモドゥスは嫌いだった。

最後は、1対全員みたいになって、ザマアミロと思っていた。

 

でも最後のあのシーンの歌を聞くと、

なぜか泣く。いつも泣く。

 

それを繰り返してきた。

 

前から、この映画をコースの解釈で見ると、どうなるんだろう?と思っていた。

 

なので、この映画を見ると聞いて、驚いた。

と同時に、

それは起こらなかった、と上から感じていた。

Now we are free.

自由、解放を感じて幸せだった。

 

映画中は、罪悪感を感じていたが、

やはりいつものように観客とか軍隊と一緒に、わーーとやってやれ!みたいな感情と同一化していた。

外側に見たかった。敵を、悪人を。やられる価値のない奴隷たちも。

 

自分の罪深さを外に見たかった。

 

ラストの歌が響いてくると、

誰もいなかった。

何もなかった。

それだけを感じて、泣くしかなかった。

 

空っぽのコロシアムの絵を見て、

あそこに誰もいなかった。

今まで誰もいなかった。

そう感じていた。

 

映画が終わった後、

グラディエーター」の主人公の写真のあるBlue-rayのケースが目に止まった。

 

すると、

透明な手がグラディエーターのケースに指を刺して、

「これは起こったんだよ!」

「これはあり得るんだ!あり得るんだ!」と叫んでいた。

 

小さい、実態のない透明な何かが、

ただ意味のないことを叫び続けている。

力のないか細い小さな声に聞こえる。

 

ん??何か言ってるけど、その声を信じる必要がない、信じたくない、

と外側からその様子を眺めていた。

何にも力を与えなければ、ただの意味のないAIのプログラムが回っているだけなんだ。

 

あり得るんだよ!

神からの分離はできたんだ!

 

その声に、

突っ込んでいって、

私が、そうだ。それを信じる。と決めて突っ込んで同一化すると、

真実のように感じるのか。

 

確かに、神の子の信じる力って、すごいんだな、、。

 

 

「順子ちゃん、完全無罪なんだよ。」

 

のり子さんにそう言われて、負け。負け。と崩れ落ちていくだけだった。

 

どんなに罪があり得る、

分離は起きたと言い張っていても、

完全無罪、と言われた瞬間、

大惨敗。大敗北。負け。負けだった。

 

私が間違っていた。ただそれを受け入れるだけだったとは。

 

その方が幸せだ。

でも痛い。

ムージがパパジの前で、恥をかかされたと感じたけど、

10月もそれと同じ感じだった。

 

それが私の幸運です、とムージは言い切っていた。

 

10月はそれが受け入れられなかったと思う。

 

だけど、

11月になって、

やっと、あのお陰様なのかもしれない。

痛々しさは続いているけど

 

私は、自分の傲慢さ、

罪深いと言い張っている自分に気がつかされ、

間違っていたいと聖霊に望み、訂正を受け入れたいと思えるようになり始めた。

 

幸いだったんだな。。

やっとそう思いはじめた。

 

恩寵なのかもしれない。

 

ありがたい。

 

 

マグダラのマリアは、

女性だから慈悲深くて、綺麗な人間マリアのストーリーだと思っていた。

反発を感じていた。

女性らしい慈悲が自分にはかけらもなく、

血が見たいと言っている男、みたいに感じていたから。

 

十字架に磔になっているイエスが、

私たちをどのように見ていたんですか!教えてください!とは祈ってきた。

 

だけど、

マリアがその血だらけになってるイエスを見ているシーンを見て、

エスにもマリア自身にも罪を見ていなかった。

罪がないと受け入れていた。

 

2人は微笑んでいたに違いない。

 

私も、マリアとイエスと目的を同じにしたい。

人間じゃなかったのか。

 

映画後に、マリアを初めて受け入れたいと思った。

 

 

献身滞在の終わりで、

エントランスの塗装の最後のローラーを、自分1人でやろうとしていたことに恥じ、

やっぱり私には陽が当たらない、という思考と同一化し、

そこから罪悪感と無価値感しか感じていなかった。

 

まだエントランスの片付けが残っていて、

ここにきた目的を思い出していた。

 

ああ、今罪深さを信じている。

私は罪深いものだと信じている。

これはあり得ると言い張っている。

だけど、

思い出そう。無罪だったよな。兄弟も私も、完全無罪だったよな。

聖霊は無罪だと言っているんだった。

そうだった。

これはあり得ると言い張っている私ごと、捧げようとだけはしていた。

多分0.01mmくらい、0かもしれない。

 

自分が憎くて、自分が赦せなかった。

 

ある程度誤解だったと気づいた時、

ああ、そうだった。

これを自分にやっている。

そして信じることにする。と決断していただけだったと。

 

確かに、私はコロシアムにいると信じ、

これが起こったことにする。

これを望む、と、

リアリティを与えていた。自分が。

 

映画を見ていた時は、コモドゥスになりたい、なりたい、と湧き上がっていた。

 

私はコモドゥスだ。

全部、彼は私だ。

 

睨み、信じられず、憎しみ、裏切るだろうと疑い、

愛されていないと信じ、

みんなが私を殺すだろうと思っていて、

罪深さを信じている。

 

私以外の何者でもない。

100%。

 

と信じていたし、

これが私なんだ、

できたんだ、分離は。

そうなんだ、そうでありたい、とやっぱり願っていた。

 

 

聖霊の、

私も誰もいなかった、誰にも私にも世界にも、罪はあり得なかったという正しさの方がいいです。

私が間違っていたいです。

 

聖霊が感じさせてくれた無罪性を自分に思い出しながら、

ボロボロで情けない、罪悪感まみれで

できた、できたと信じていますが、

私を、あなたにお返しします。