私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

イエスとイエスを信仰する私の物語

聖霊、わたしには何もわかりません。

何もできません。

 

わたしは内に向かうのがとても恐いのです。

どうか手を取り、お導きください。

 

わたしが誰なのか、

知ることがあまりに恐ろしいのです。

 

あなたの導きなくしては

わたしが誰なのか知ることができません。

 

どうか助けてください。

 

 

レッスン1 

この部屋の中に見えているものには、何の意味もない。

 

 

出かける玄関先で、

今日のレッスンの言葉が浮かぶ。

 

地元のカレーパン屋に出かける。

カレーパンに、何の意味もない。

 

その後、予定になかったが、

聖霊から話を聞いていた

隣町にある隠れキリシタンの遺物コレクションがある記念館へ向かう。

 

一度こちらに来た時、

すぐその日に父聖霊の口から聞いたが、

怖くなり、行けなかった。

 

以前はHPに載っていた写真を見て、
入り口にある十字架が怖くて仕方なかった。

 

 

この部屋の中に見えているものには、何の意味もない。

 

聖霊とともに、

説明を聞きながら、様々な品を見ていく。

 

十字架の前に聖母と子がある木の踏み絵。

 

日本に帰化したフェレイラ、の文字。

 

魔鏡。

 

十字架。

 

俵に隠した像。

 

記念館から見える海。

 

 

二階の礼拝堂へ上がり、椅子に座り、

祭壇に向けて祈っていた。

 

この部屋の中に見えているものには、何の意味もない。

 

祭壇は違うよね。

祭壇を除外しようとしていた。

 

 

祈るわたしはキープしておいて、

エスとわたしの間に祭壇があって

そこに捧げるというのではなく、

 

あなたごと捧げるのだよ、と言われている感じがしていた。

 

 

しかし終始、知覚はうっすら怖さを感じていて、

それを抑えているように感じていた。

 

 

でももう、隠したくない。

あなたから隠れていたくないんです。

聖霊

エスに感じていることや思考を正直にさらしていきたい。

 

 

昨日勉強会で、のりこ聖霊に言われたのだが

従いたいの前に、

まず自分の抱えている罪悪感を隠さず

浮上させていった方がよいとのことだった。

 

 

はい。そうしていきたい。

エスが一緒にいてくれる。

手を取ってくれると

語りかけてくれているのだから。

 

 

帰宅後、

金曜日にUPされた
「動物虐待の知覚【デイビット・ホフマイスター】」奇跡講座の動画を観る。

勉強会で取り上げられていたところ↓

12:38〜

デイビットが以前、こんなエゴの比喩を使っていました。

毒を海に捨てて、それを少しずつすすり飲む。

毒は薄められるけど、それでも毒性はあります。

 

いつも心の中に巨大な自己嫌悪と罪悪感があって、

私たちが外の世界の具体的なことに、

それを少しずつ投影する度に、いわば、

罪悪感を最小化するような感じになるのです。

そうすることで、ひどい恐れを感じないからです。

 

しかし、だからこそエゴを持ち続けるのです。

そして、投影する物語は、何年も何十年も同じだったりします。

そのようにエゴは物語や具体的なことを使って、

自己嫌悪や罪悪感をあなたに持ち続けさせます。

そうすることで、酷すぎるとか手に負えないと思うに至らず、手に負えるので持ち続けるからです。

 

。。。

記念館を出て、海へ行っても、

このことをどうやってブログに書こうか。とばかり思考が上がっていた。

 

また、

そういえば映画:沈黙のフェレイラって実在だったのかな?とか

木の踏み絵の親と子は、

わたしは神の子ではありません。と言いたいわたしなのだ、という

思考がどんどん出てくる。

 

わたしには関係ない。

わたしにではなく、罪があるのはあっちだ。と

 

物語を作り出そう、作り出そうとする。

思考しよう、思考しよう。

 

エスや神を信仰するわたし。というのが、

このわからないようにして罪悪感を隠し続けている物語だ。

 

わたしはこのように聖霊に導かれ、

遣わされ、写真を撮り、ブログを書くようにと導かれている、と。

 

罪悪感を常に抱えていて、

何とか隠しておきたくて、信仰する。

 

神に仕える聖なるもの仮面をつけておく。

 

前から言っていた、

エス聖霊の指示が聞こえない。

エスに従えなかったら、

指示と違うことをして間違ってしまったら、死にます。

死んでしまいます。

 

エス様、

どうか赦してください。

指示に従えなくて、ごめんなさい。

できなかった。申し訳ない。

 

ちょっとでも間違う自分が赦せない。

 

聖霊のお導きによる、

リトリート後〜昨日の勉強会で教えていただいたこと〜今日・動画、、、

全てを経て今ようやく気づいたのだけど、

 

従えないとか、

従えなかったからという

この世界の将来や過去の出来事・物語が原因ではなく、

 

分離を信じている心のわたしがすでに罪悪感を抱えているからで

 

それを隠すために、

エスを信仰している・信仰してきたわたしという物語、

エスとわたしという関係を利用している。

 

罪悪感を感じている本当の理由は、そこではなかったんだ。

 

。。。

13:46〜

「しかしあなたは、わたしの手を取り、ともに歩くことを望まなければなりません。

 

基本的にジーザスが言っていることは、

「外へ投影し続けることをやめなさい。

外の物語に囚われてしまうことをやめなさい。」

レッスン79で

あなたが問題を定義しない度合いに応じて、解決法を見ることができるでしょう。

 

それはとても実用的です。

 

あなたの人生の中で、物語が繰り返され、それがいつも引き金になる時、

エスがあなたにこのように言おうと待っています。

 

「あなたの心の中のこの物語を手放しなさい。

そうすれば、何が本当の問題の根源になっているのかを、

わたしがあなたに見せてあげられる余地が生まれます。

14:32〜

あなたは心のうちに入っていうことをとても恐れていますが…

…内には、無罪性と光があるのみだと私が見せてあげましょう。

だから物語を手放してください。」

 

本当にそういうことなのです。

 

。。。

自分が理解できているか、わからない。

 

わからない。

でも、もう助けてほしい。

 

分離を維持するための、

エスとイエスを信仰する私の物語。

 

分かっていたけど

本当に手放すなんて冗談じゃない!と言っている。

 

 

でもそれは罪悪感から作り出されていると知りました。

 

エス様、真に救われたいんです。

 

だから、

この物語を手放します。

 

少し平安を感じる。

愛されている。

 

また掴むかもしれないけど、

もう手放したい。

 

 

エス様、

ありがとうございます。

 

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