私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

行動

昨日の東京シェア会を通じて気づいたこと。

 

 

近いうちに何か、あるだろうな。と感じていたら、

 

今回のシェア会の話があがり、

参加することになった。

 

聖霊のサインを感じていた。

 

 

昨日の、教会でひいたおみくじみたいなもの。

 

この世界に、罪悪感を投影する様を

聖霊と共に見させていただいた。

 

もちろん、

罪悪感を感じているので、

まったくもって知覚は最悪。

 

 

しかし、

 

トリックを一緒に見抜いてくださいと祈り、

聖霊に助けていただいて、

見ることができ、それに応えていただいた。

 

 

映像は、

教会だろうが、東京駅だろうが

 

何でもいいし、誰でもいいんだ。

 

 

いかに、そこ原因を結び付け、

罪悪感を強化し、

 

「わたし」を維持してきたか?

 

 

ああ、

 

夢見ているわたしにとって

 

本当に、

決して

個のわたし、は永遠に一人ではこれに気づくことはできないんだ。

 

 

絶対、絶対、絶対的に

 

聖霊、神様からの助けがないと

正気になれないんだ。

無理なんだ。

気づけないんだ。

 

 

たとえ、

自我的に不都合なことあっても、

 

痛い思いや苦い経験であったとしても、

 

何を感じていても、

 

 

共に見てくださることを信頼し、

 

罪悪感を見ることは避けられないんだ。

 

 

絶対に夢見から目覚めるには、自力は無理なんだ。

 

助けが必要なんだ。

 

 

 

「わたし」は

痛い、とかつらい、とか罪悪感を感じるのはだめだ、と

幻想を見ることを避けようとしていた。

 

良くないに決まっていると言っている。

 

 

分離したと思っているわたし、が

それは起こらなかったと理解する、ので終わりではなく、

 

 

わたしがいなかった。

それは生じなかった。

罪はなかった。

何も起こらなかった。ということに

 

完全に目覚めるためには、

 

そのすべてを見ることは避けられないんだ。

 

 

 

個のわたしは、

どこかで、

 

エス聖霊

 

この痛みや罪悪感を

わたし、から「取り除いてくれる」存在という

 

エンドレス夢見長引かせバージョンの、

 

自我的、ご都合主義の

わたし、を癒してくれる的存在にしておきたかっただけだったんだ。

 

 

「わたしを維持するために、お前を利用する。」と。

 

 

 

そうじゃなかった。

 

 

あれほど、

あれほど、

 

のりこさん聖霊から

勉強会でも合宿でも、

ずーっと

 

 

隣に座っていたときにも

話してくれていた。

 

都合の悪いことしか言わないよ。とか

言われていたのに、

 

まったくスルーしていた!

 

 

まったく、まったく聞きたくなかったので、

耳を塞ぎまくっていた。

 

 

しかも、

分かっていて、

受け入れたくなかったのも見えていた。

 

正しさを主張していた。

勝ちたかっただけだ。

 

 

ああ本当に、

のりこさん聖霊の言う通りでした。。。

 

 

 

 

昨日理解できたのは、

 

 

それは、

 

教会に入る前に、

祈ったように、

 

夢から完全に目覚めることを意志し、

トリックを自分に暴く目的をはっきりさせた上で、

 

 

「行動」したからこそ、

 

 

 

エス様から助けを得て

身をもって、体験として気づくことができたんだ。。

 

 

 

分かるように

駐輪場でお金が帰ってくる、という

幻想の証拠も現してくださった。

 

 

一緒に見ていただけるんだと

信頼すること。

 

 

 

そのすべてが、

お導き、助けだったんだ。。

 

 

有難うございます。

 

 

 

 

「行動」する。

 

 

全くもってスルーしていた。

 

 

避けようとする。

 

 

でも、

 

 

一番コアなことを

ずーーっっと

のりこさん聖霊に言われ続けていたんだ。

 

 

毎瞬、この連続なのか。

 

 

あまり、

外出したりするのは、

気が進むほうじゃない。

 

一方、

行ってやる!みたいな

俺様な面も見えていた。

 

 

夢見から目覚めるという目的のもとに、

 

聖霊からのサインがあって、

シェア会に参加する。という

 

「行動」をしたからこそ、

 

 

証人を現してくださったんだ。

 

 

幻想は見ないでいることで維持されている。。

 

 

ああ、

そうなんだな。

 

 

本当に、

わたし、が正しいだと思ってきたことは

全部嘘、

 

全部真逆だったのか。。

 

 

 

この気づきも

ブログに書きたくないという思考があがってくる。

 

 

理由は、

 

わたしはわかった、というだけで、

他の人に先を越されたくない。

握っていたい。

 

優位を保ちたい。

 

 

あほさ加減をさらしたくない。

 

 

共有するなんてごめんだ。

 

 

全くできていなかったことを

さらすなんて、負けじゃねえか。

 

恥だ。

 

人のせいにしていたことは

全部おれのことだったのかよ。

 

 

俺に否はない!とか。

 

 

 

しかし、

これも、「行動」だ。

 

ブログに書く、という行動をすることで、

 

 

そのように上がってきた思考を

自分のもの、としてきたのを

聖霊と見つめる。

 

 

 

聖霊にすべての思考、概念を捧げます。

 

 

 

 

 

わたしには何もわかりません。

 

わたしには何もできません。

 

わたしがはめてきたトリックに気づくことはできません。

 

完全に夢見から目覚めるまで

 

どうか一緒に見ていけるよう

助けてください。

 

どうかお願いいたします。

 

 

エス様、

聖霊

神様有難うございます。