私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

もっと後ろだった

兄弟を貶めようとする馴染みの思考が現れていて、

 

聖霊と眺めていた。

 

それがあなたではない

と後ろから響いてきた。

 

ああ、そうか。

人形順子の私が

「これが私ではない」とか「これが私でないことを望む」って

言っていたんだな。

 

そうじゃなくて、

もっと後ろだったんだ。

 

忘れないように書いておこう。

 

 

私の奇跡

私に起きた奇跡の方が、

あなたに起きた奇跡よりも価値がある。

 

だから私はあなたに起きた奇跡を認めたくない。

 

私も同じことを感じていたのに。

 

自分が獲得したものは自分が所有する。

混沌の法則。

 

輪島で感じた奇跡を

聖霊に書かせてもらった時、

 

書き出しが、

”私にとって” 金沢〜輪島の旅で一番の奇跡は

だった。

 

それ以外は認めないって思っていました。

 

全部奇跡だったんだよ。

 

確かにそう感じたのに、

他は認めないって言い張っていました。

  

私の奇跡の方が真実だとか

あなたの奇跡を認めたら、私のが霞むとか

私の感じた奇跡の方が価値があるとか

あの人は何倍も大きな奇跡だったとか

 

そんな考えは全くあてにならない。

 

それが私ではない。

 

それが私ではないことを望む。

 

必要ない。

去れ。

 

相手の奇跡を認めたら

私が負けて損をすると信じて、

認めないぞ!と守ろうして必死に攻撃する。

 

フェンス越しに吠えているあの二匹の犬だ。

 

私自身と戦ってるのか。

 

そんなことにはまったく価値がない。

 

私はそれよりも

聖霊が教えてくれる愛を望むんだ。

 

あなたは愛ですと教えてくれる

その愛を望むんだ。

 

自分自身としてみたい。

仕事で接している人だけじゃなく、

すべての人を。

 

愛と助けを求める懇請も、奇跡も。

 

そこにしか救いがない、ということを

とことん知らしめてください。

 

 

あなたは愛なんだ

ほとんど動かせない、話せない、自由がない身体、

高齢で訳が分からなくなってしまった、思うように動かせなくなった身体、

 

自分自身として迎え入れたい。

自分自身として見たいと思っているすべての肉体の奥から、呼びかけられていた。

 

「あなたは愛なんだ。

 

あなたは愛なんだよ!

 

あなたは肉体じゃないんだよ!」

 

私が何なのか、

私の方が彼らから教えられていました。

 

助けてもらう必要があるのは、私です。

 

私は自分が何だか分からなくなってしまいました。

 

あなた方からのその助けを受け入れたい。

 

あなた方からの呼びかけに応えたいです。

 

あなたが肉体を超えて教えてくれているように、

私が愛だったと知りたいです。

 

どうか助けてください。

 

 

最期はイエスに看取られたい

お見送りの後、

 

その時感じていることが、

介護の仕事をしているからではなかったんだ、

そうなんだなと感じました。

 

でもまだ

私はこの仕事をしているという私が、私なんだと言い張る声がある。

 

何度もやってくるその誘惑に

これが私ではない。

これを望まないと

聖霊と繰り返し一緒に言うことを思い出させています。

 

いつも手早くできず、

作業や気づきが遅いと自分を責めている。

 

職員さんは「ゆっくりでいいよ。」と言ってくれて誰も責めない。

おばあちゃん達も私を急かすことはほとんどない。

 

手早くやるなんて、私には無理だ。

私にはまだ全然何もわかってない。

ダメダメ。

 

夜間ベッドに車椅子をつけることを忘れたり、

すぐ聞こうとしなかったり。

 

誰も責めないし、

注意だって利用者さんが安楽に過ごしてもらうため、というところから言ってくれる。

  

なんだかんだで、

職員さん達は利用者さん達を愛している。

 

素晴らしいな、と思うし、

その一員にさせてもらえていることがありがたい。

 

私には難しい。

いつも自分優先になっているから。

  

私の歪んだ見方で見た時、

私だけがこの人のことを特別に知っていて、分かっている。

喜ばせることができる、と職員同士が競争しているように見える。

 

そんなの望まない。

 

私はできている人でいたい、

私はわかっているというプライドを守ろうとしていることに気づいて、

本当に諦めていきたい。

 

もういい。

 

私も相手も今日が最期なら、

私は愛を与えることを選ぶ。

 

そう思って昨日、居室でオムツ交換に入った時、

 

聖霊から、

そこに神がいる。

 

と伝わってきました。

 

ほんの0.0001秒くらいだけだったけれど、

私には奇跡でした。

 

相手と私だけの空間。

汚物を取り除き、綺麗にさせていただく間に聞こえてきた声。

 

どれだけ聞こうとしていなかったのだろう。。

 

うまくやってとにかく切り抜けられればいい、

私だけよければいいという声を

私は望まない。

それは私ではない。

 

大の大人の男性、女性。

勤め先、立派だった経歴を持った方もいる。

 

人生の最期に、

身体も思うように動かせなくて、

理性も自分で制御できなくなってしまい、

 

もはや自分では隠すことができなくなってしまった

自分の身体の恥ずかしい部分、

 

思うように動かせない身体、

 

最後の最後まで自分の心の中に留めて隠しておきたかった

激しい怒りや悲しみ、嫉妬や罪悪感、愛を求める懇請。

 

どうにもできなくなってしまった私を委ね、晒す時、

 

そこにイエスにいてもらいたいんだよ。

最期はイエスに見送ってもらいたいんだ。

 

そう思うよ。。

 

聖霊

あなたの白い炎によって

私が燃やし尽くされますように。

 

 

神を見ている目

訪問の方がお昼ご飯の時、

つまりお腹から栄養を取る胃ろうのお時間の時、

 

ちょうどその間の時間ぐらいの

一緒に聴きたいと思っていた曲がありました。

 

先月の平安へのツールで

えばちゃんが流してくれていた曲で、

 

それを見た時すぐに、

ああ、是非この方と一緒に聴きたい、、と思っていました。

 

ガイダンスかは分からないけれど。

 

こうすけさんがブログで紹介してくれている、

カースティンのメディテーションのピアノ音楽でした。

note.com

えばちゃん、こうすけさん、ありがとうございます。

 

今日はその機会がありました。

音楽を流しながら作業を進めていきます。

 

会話はなく、

沈黙。

 

今日この日、

この時間まで、緊張や不安、裁かれる恐れが沸き上がっては

馴染みのある私は不幸、犠牲者でいたい誘惑と同一化する。

 

しかしこれは私ではない。

これを望まない。と決断を繰り返していました。

 

この時間、恐れの中

彼と一緒に聴きたいと思って、

初めてこちらの仕事中に、聖霊に耳を澄ますスペースを自分に与えました。

 

彼は聴いているのだろうか?

 

すると、

 

彼は聴いているよ。

聖霊から伝わってきたように感じました。

 

30分ちょっとの間。

 

何も話してないし、

肉体のコミュニケーションはしていない。

 

胃に繋がれたチューブに栄養を流すというお食事の作業を

お手伝いしているだけでした。

 

だけど、今までで一番通い合っていたような気がしました。

愛を受け取っているような、安らぎを感じながら。

 

彼も安らぎを感じていたのかは、分からないけれど。。

 

その後、

今度はビートルズの特集のyoutubeを開いたら、

一番最初に流れてきたのが、Let It Beでした。

 

Let It Be 

身を委ねなさい

 

すでに身を委ねていて

なさしめられるままになさしめられている、

 

その通りにしている彼の

 

Let It Beを聴きながら遠くを見ている目が、

真っ直ぐで美しく、綺麗でした。

 

いつもとても澄んでいて透明で綺麗な瞳だけど、

 

彼は神を見ている。

 

確かにそのような目でした。

 

身を委ねなさい。

 

そう彼が教えてくれています。

 

エス、あなたなのですね。

 

なんとありがたいのだろう。

言葉もありません。

 

まだまだ彼の中にいるイエス、あなたを直視できないのですが、、

 

その目に、

お姿に触れさせていただける機会を与えていただいて、ありがとうございます。

  

のり子さん、

Let It Beを教えてくれて、ありがとうございます。

 

youtu.be

youtu.be

最期に触れさせていただいたからこそ

昨日、他のフロアーの方の最期に触れさせていただきました。

 

介護職もNSも事務員も、

職員みんなでお別れし、お見送りさせていただきました。

 

そのフロアーの職員全員が、

玄関の外まで駆け出して、車が見えなくなるまでお見送りしていたのが印象的でした。

 

私はその方と面識がなかったのですが、

自分のフロアーに戻った後、涙が出てきました。

 

最期に触れさせていただいたからこそ、、

 

今日が最期だったら、どうしたいか?

今なぜここにいて、私はどうしたいのか?

 

それまでとは一気に逆転して

はっきりしだしました。

 

これは自分の知覚なのだけど、

 

みんなの顔が笑顔に見えてきて、

職員さんたちがみんなに優しく接したい、

今日一日を楽しく穏やかに過ごしていただきたい、という強い思いで

利用者さんたちに接しているように見えました。

 

感情的になって、泣き出すおじいちゃんに明るく声をかけたり。

いつもの光景なんだけど、まったく違って見えました。

 

感情がダダ漏れになっていて絶叫する方や、

怒りをぶつけてくる方、

お世話しているのだけれど、理解できずに

「おい」「人殺し」と言って拳を振り回したり、暴言をぶつけてくる方。

 

お互いの間に起っているように見えるけど、

それもすべてこうやって過去になっていくんだ。。

 

愛と助けを求める懇請。

私自身として迎え入れたい。

 

赦したい。

 

聖霊、あなたに赦しの目で見てもらいたいです。

 

これが一番の願いです。

 

聖霊、あなたに見てもらいたい。

 

今、個の自分を維持し続けて、正しくあろうとして地獄に居続けるのか?

それとも

正しくなくていい。間違っていることを望み、永遠の愛を選ぶのか?

 

最期に触れさせていただいたからこそ、

 

「今、どちらを選ぶのか?」

突きつけられました。

 

恩寵です。

 

NSも事務も、全員がただの一つのコマとして、

その方の終末、最期に向けて、何をしているのかが分かった気がしました。

 

その方のお陰様です。

本当にありがとうございます。

 

聖霊

導いていただいて、ありがとうございます。

 

 

Time To Say Goodbye

他のフロアーでターミナルの方が亡くなられました。

 

職員が玄関に並び、お見送りします。

 

白い衣装に包まれたその方のお顔を拝見させていただいて、

順番にお別れをさせていただきました。

 

入所された当初は大変だったというご様子や

最近は穏やかになられた話など、

ケアマネがその方の思い出を話してくださり、

全員で聞きます。

 

話が終わり、

お顔が白い絹の布に包まれるのを見届け、

 

ご家族から、
「ありがとうございました。」とお言葉をいただき、

 

職員からもまた感謝の中、

 

最後に玄関から、車に乗られて退所されるまで

お見送りさせていただきました。

 

 

家に帰った後、その日の勉強会で聞いた

Time To Say Goodbye

 

あのお姿は、私自身だったんだ。

 

個人の私。

 

さようなら。

 

個人の私、という私。

 

さようなら。

 

この世界。

 

サレンダーしていって、

運ばれていく私。

 
消えていく私。

 

Time To Say Goodbye を泣きながら聴いている間、

そのシーンが思い出されていました。

 

あなたは今日のお見送りのシーンで、私に何を伝えたかったのですか?

そう祈っていました。

 

取り残されて悲しいシーンではなく、

 

それは希望を感じる旅立ち、

広がり、美しい、祝福の中、自由、幸せへの旅立ちに変わりました。

 

私の望みを

私にわかるように、そこに導いてくれたのですね。

 

個の私の死、という望みを。

 

それは祝福されているということを。

 

 

ありがとうございます。



勉強会でTime To Say Goodbyeを流してくれました。 

のり子さん、ありがとうございます。

歌い手の二人もまた白い衣装で、聖霊からのメッセージに感じました。


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