私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

早くこなせる人に見られたい

1日かけて、

その方は仕事の一つ一つを、

ゆっくりと、とても丁寧に教えてくれました。

 

最初に言われたことは、

まだ日数が浅いのだから、

焦らずやっていけばいい。ということでした。

 

それでも、

説明を聞きながら、

最初に私が思っていたことは、

 

早く覚えて、自立しなくちゃいけない。

そうしないと他の職員たちから怒られる。

できてない人に見られるのが嫌だ。

私は、できる人。

スムーズにこなせる人でありたい。

 

ある作業が一通り終わった後、

 

「焦ってますか?」

 

とその方に言われました。

 

一瞬、ムカっとしたけれど、

「はい。」

と言いました。

 

その通りです。

 

私が全く気にする必要がないのに、

その部屋の外の様子を気にしていたり、

 

早くやらねば、、とプレッシャーを感じていました。

 

自分のやったものを

その方は説明しながらやり直しました。

 

責めるようなことは決してなく、

丁寧に説明してくれました。

 

焦っていたり、イラつきながらも、

半日ほどそのように過ごした後、気づきました。

 

自分がよく見られたい、

早くスムーズに業務を進められることが、

仕事ができている私、

よくやれている、当然だ。

そう見られたい。

そんな欲求があります。

 

今までずっと、

仕事でもなんでも、それが当たり前だと思ってきました。

 

でも、

すべて私の心を見透かされていて、

すべて分かっている方々全員を目の前にして、

 

そんなスピードだの

なにかをスムーズにこなせたから優れている、ことなど、

なんの役にも立たず、まったく無意味じゃないか。

 

隠していたかった。

スピードでごまかしていたかったです。

 

他の職員にどのように思われているのか分からないし、

少しずつ要領を得ていかなければならないけれど、

 

そのようにやってもらって感じたことは、

平安でした。

 

そしてその反映なのか、

 

その平安を分かち合えたからなのか、

 

いつも少し触れただけで、激情されるような方も

穏やかそうに見えました。

 

そうか。

 

早く通り過ぎてしまいたかったな。

早くこの人生終わらないかな。

その先に平安があるに違いない、

目の前を見なくて済む、と思っていました。

 

どうやら、それは違うみたいです。

 

負けを感じたけれど、

平安も感じています。

 

私が間違っていました。

 

とことん、私は間違っているということを知りたいです。

どうか気づかせて欲しい。

 

間違っていたいです。

 

みなさん、

教えていただいて、ありがとうございます。

 

 

自分自身として見た時

もし、自分が90歳で、

 

なぜここにいるのか分からなくて、

 

ここがどこだかさっぱり分からない。

 

不安で、怖い。

 

とても怖い。

 

一人で自由に動けない。

 

イライラする。

 

なぜか頼れる家族がそばにいなくて、

 

一人で、

 

おしっこしたいという思いと重なっていて、

 

おしっこが出ないのに

不安でトイレに行くことで落ち着こうとする。

 

でも、

すぐに不安になってしまい、

すぐ忘れてしまう。

 

怖いな。

暗い。

不安だな。

右も左もわからなくなっちゃった。。

 

どうしたらいいか分からない。

 

そう思っている90歳の私自身に、

 

本人は何でそう言われるのか分からないのに、

間違っていると思っていないのに、

 

早く強い口調の言葉で

何言われているのか分からないけど、怒られているように感じてしまう。

 

90歳の私自身だったら、

何を感じるだろう?

どう思うだろう?

何を感じただろう?

どう思っただろう?

 

初めてそう思って、

自分自身として相手が感じたことに思いを重ねて見ようとした時、

 

不安で寂しかっただろうな。

怖いだろうな。

悲しいなあ。

どうしていいか分からないから、

怒ったりして、

引っ掻いたり、叩こうとしたり、大声で喚きたくなってしまうよね。

 

そう感じた。

 

初めて、

分かってあげられなくてごめんね。

悪いな。悪かったな。って思いが溢れた。

 

自分の都合ばかり考えていて、

自分が正しいに決まっている、と正当化しかしていなかった。

 

自分自身として見たらどうだろうか?

 

その時感じたことを、

怖いけれども、嫌だけれども、

思い始めた時、

 

そこから何かがひっくり返っていきました。

 

キチジローを自分自身としてみたい。

ロドリゴを自分自身としてみたい。

 

私自身である二人を抱きしめて、

3人で燃やされていくような感じがしていきました。

 

人間じみたやり方だとか、

人間的に考えている。

スピリチュアル的じゃない。

肉体じゃないのに、とかまったくコースっぽくない。

小学生の道徳の授業みたいだ。

 

怖いけど、

相手を自分自身として見てみたらどう思っただろう?

何を感じただろう?

自分自身として見てみたいと望み、

ちょっとの意欲を差し出した時、

 

聖霊の導きの元、平安へのツールへ導かれていきました。

 

どうやら私は

人間じみたところを避けてきたから、

思いっきり直面していく必要があるんだな。。

 

そう思い始めました。

 

コースをやっている私でいたかったのですが、

私は何も分かっていないみたいです。

 

何だか、

どんどんコースから離れていっているようにも感じていました。

 

でも、何が正しいのか私には分かりません。

 

何が私にとっての癒しなのか、分かりません。

 

あなたを信頼して、尋ねていきたいです。

 

 

私自身

もうそろそろ、と見られている方。

 

とてもとても痩せていて、

骨と皮だけのような体。

 

腕が縮こまっていて、

肌は茶褐色。

 

お名前を呼ぶと、

わずかに瞼をピクッと動かされた。

 

私。

 

私自身であると教えられなければ、

私だって思おうとすら思えなかった。

 

家に帰り、思い浮かべると

その方と心で一つなのを感じて、

 

家族、と浮かんだ。

 

涙が出てくる。

 

ありがたいと感じるからかな?

なんで泣くのか分からない。

 

あなたが私に代わって見て欲しいです。

 

私自身として見たい。

 

私の最期の最期に、何を思う?、、

 

優しくされたい、

赦して欲しい。

 

そう思うな。。

 

だから

その方という私自身に

 

優しくありたい、

慈しみたい。

 

と思う。

 

私ができることは、何もないのだけれど。

 

 

風船バレー

何日か前、

みんなで風船バレーをやった時のことを打ち明けさせてください。

 

先輩の職員さんが声をかけて、

みんなで風船バレーをやりました。

 

椅子や車椅子に座って机を囲み、

職員がフォローしながら楽しんでいただきます。

 

先輩の職員は、

場を盛り上げて、みんなを喜ばせるのがとても上手です。

 

みんな

時を忘れて、我を忘れて、

夢中になっていて、とても楽しそう。

 

そんな輪の中にいさせてもらいながら、

私が感じていたことは、

 

罪悪感、孤独感、寂しい。

 

先輩は、

本当に一人一人のことをよく見ていて、分かっていて、

しっかりした声で、どう声をかけたらいいかよく分かっています。

 

どうやったら喜んでもらえるのか分かっていて、

いつもなら帰りたいと言い出す人も、

楽しんで夢中になってました。

 

風船バレーをしながら、

 

ああ、

私は、喜ばせてあげられない、

分かってあげられない。

 

だめだなあ、、と

敗北感と、罪悪感を感じていました。

 

家に帰ってからfacebookを見ると、

 

海岸で4、5匹の犬たちが、

ジャンプしながら風船バレーをしている動画が目に入りました。

 

その動画を見ていると

犬たちの楽しそうな感じ、幸せを感じが伝わってきます。

 

なのに、

私が認知症のおじいちゃんやおばあちゃん、

職員たちと一緒になってバレーしていた時、

 

感じていたのは、

孤独感や無価値感でした。

 

私一人だけが、

その場で幸せや楽しさを

 

純粋に感じられていなかったのかもしれない。

 

私は楽しませてあげられない、

喜ばせられない、

 

愛と平安を与えられる者のはずなのに、

できてるでしょ?私って言えない。

 

自分が気が進む時、利用できる時はいいけど、

それ以外は面倒。

 

素晴らしい介護者でありたい。

よく見られたい。

楽しませて、喜ばすことができるものでありたい。

できてるでしょ?私って言いたい。

それを証明したい。

 

ずっとそう思っています。

 

これは本当にうんこ以下の願望なのかもしれません。

 

みんなの方がよっぽど素直です。

 

普段、

文句ばかり言ってきて、

少し触れただけで怒り出す人が、

 

「うんちでちゃった」って正直に打ち明けてくれます。

 

躊躇せずに、素直に、助けを求めてきます。

 

どうやら私は

うんこ以下の願望にしがみついているようです。

 

その願望に気がついて、

やめていきたいです。

 

私には何も分からないし、

できていないのに、

 

わかろうとしたり、

できる人であろうとします。

 

いつも、いつも、いつも、それしかしてません。

 

でももう、

 

彼らを

本当の彼らが見えていない私に代わって、

どうしてもあなたに見ていただきたいんです。

 

彼らが教えてくれていることに、

素直に開いていて、受け取りたいです。

 

私の誤りに気づけるように

どうか助けてください。

 

みんなのことが、分からない。

何言っているのか分からない。

何してあげたらいいか分からない。

何を言って、してあげたら喜んでくれるのか分からない。

 

私が、うんこ以下の願望を握っているからだ、ということに

気づけない。

 

心のままに

この体を

手足をお使いください。

 

そう浮かんだので書きました。

 

いつものことだけど

また口先だけで終わると思います。

 

でも

私には何も分からないし、見えていないので、

そうするより他にないとも思っています。

 

ごめんなさい

新しいことを覚えないといけない。

 

間違えたらいけない。

 

迷惑かけたくない。

 

ビクビクして怖い。

 

自分のことばっかり考えてる。

 

全然、みんなのことにフォーカスしようとしていません。

 

帰ってからやっと、

ホッとしてみんなのことを振り返ると

 

何かに触れて涙が出てくる。

 

みんなのことを

全然分かってあげられなくて、ごめんなさい。

 

食事をスプーンで口に運んで、

食べていただくこと一つ、

 

その方がどうして目を閉じていて、

なかなか口を開けようしないのか、

 

私には分かりません。

 

その方のことを分かろうともせず、

見た目で判断し、

 

私の都合ばかり考えて、

ただ終わらせよう、やろうとしていました。

 

ごめんね。

 

何にも分かってない。

 

何もできていない。

 

申し訳ない。

 

何やってるんだろう。

 

怖いし、

罪悪感も感じている。

 

目を開いてないのは、

私の方だ。

 

よくやりたい。

 

できてると思われたい。

 

心を閉じてて、ごめんなさい。

 

それでも、

目の前の方を、私自身として見たいです。

 

 

 

恩返ししたいです

よろしくお願いしますと言うと、

 

その認知症の男性は、

 

深々と頭を下げて

 

合掌して

ありがとうーーーと言われました。

 

 
もう私にはなすすべがありません。

 

私には何もわかりません。

 

何もできません。

 

誰なのか分からない。

 

まったく分かってないのに

それなのに、関わらせていただける。

  

させていただいている恩返しをしたいです。

 

だから

私は正気になりたいです。

 

仕事はいいけど

何で食べるものだとか、いちいち何であなたに従わなきゃならないんだ!と

今でも思っています。

 

でも

 

あなたは私に何をお望みですか?

 

何をして欲しいですか?

 

それしか言うことができなくなってきました。

 

彼が私に正気になるようにと教えてくれていることに、

開いていたいです。

 

 

ロドリゴと同じでした

私はスピリチュアルな人で分かっています。

 

他の人たちと違って、私は特別なんです。

 

エス聖霊を知っている私は、特別なんです。

 

だから私がみんなに手本を見せてあげよう。

 

ここやこれ、あの人たちは

みんな私のためにこさえられたんだ。

 

神に感謝します。

 

私、のためにいてくれて。

 

私、のためにあってくれて。

 

このように思っていました。

 

だけど、

 

それのどこが悪いの!

私が間違ってる訳ない!

私が正しいに決まってるじゃないか!

 

そう信じていました。

 

エス聖霊、神という言葉や、

私はこれを知っている、

こう感じている私は優れている。

 

だから

それを語ることは恐れない。

 

そう思って何が悪い?

 

ある一言を言われた時から動揺し始めました。

 

私が何かもたらすものになれる、と信じていた状況や人から

手のひらを裏返したように

裏切られて、攻撃されたように感じ始めました。

 

利用できると思っていた人が

井上様や

ロドリゴを非難し、攻撃する日本人たちに見え始めました。

 

怒り、恐れ、罪悪感、私が間違っているはずがない。

悪いはずがない。

恥ずかしい。

そう感じ始めた時、

 

まさか

映画そのままに

私が本当にロドリゴと同じことをしていたなんて、

 

今までまったく気づきませんでした。

知りたくもなかった。

 

奇跡講座やイエス聖霊

宗教のようにして、

 

言葉を語り、

私はこうやってますと信仰を語って救えると信じていた

ロドリゴと同じでした。

 

働くところ、そこで働く人たち、与える相手という偶像。

 

私が与えられる聖人。

愛を持って与えられるもの、という偶像。

 

全部利用して、

私が望む、都合のいい偶像にしていました。

 

 

言葉や徴を利用して偶像にし、

信仰する私でいたかったです。

 

悔しい。

悔しいです。

 

全否定されたように感じます。

 

負けに感じます。

 

 

言葉や、

今までこうしてきましたとか、

私が宗教にしていた奇跡講座も手放し、

 

最後にロドリゴが平安を見出したように、

 

私も彼と同じ平安を望みます。