私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

続ギロチン

先日、ギロチンされるビジョンを見て、

起きていなくて笑っていたという記事を上げた。

 

その時、微妙に違和感を感じていた。

 

そして、それを分かっていた。

 

とどまりたい、とも思ったし、

このままじゃないな、とも思っていた。

 

しばらくして

学習会の仲間から「怖い絵」展覧会に行かないか?と誘われた。

 

その絵が、

西洋の若い女の子目隠しをされ

今まさに、首を切られようとしている絵(笑)

 

あ、ギロチンだ。と思った。

 

この絵は電車の駅のホームによく貼ってあったので、知っていた。

 

ホームで見た時は、「怖い」と思った。

 

すぐに

ラマナマハルシの「あるがままに」の本の中で、

気になっていたところがリフレインする。

 

「あなたはあれやこれといった「私の」所有物を放棄する。

もしその代わりに「私」と「私のもの」という想念を放棄すれば、

すべてが一太刀で放棄される。

所有の根本原因が絶たれるからである。

このようにして邪悪は種のうちに砕かれ、つぼみのうちに摘み取られる。」

 

この、

「一太刀で」という一文がとても気になっていた。

 

首を切り落とす、ギロチンとかぶる。

 

「怖い絵」は自我から見ると、確かに怖い。

 

この悪者たちは、なんの罪もない私を殺そうとしている!

私の命は今まさに、絶たれようとしている!

絶望。。

 

しかし、

 

ギロチンにかけられても、死ななかった。

肉体を去っても。

 

 

 

真我を知るためには

自由であるためには

「わたし」という首を、完全に切り落とす必要がある。

 

自我の死。だ。

 

 

「私」が○○した。

の○○という対象(人、男と女、物事、過去、喜びと苦しみ、至福とか感覚など)に向けている以上、苦しみは続くのがわかる。

 

だから、

「わたし」は誰か?と探求する以外、なくなった。

 

そして、

今でも、真我からさまよい出ては(=死。つまり自殺している。)

その想念が起こったのは誰か?と探求し、

戻ることを繰り返している。

 

特定の物事、人、対象に対して、ものすごい、ものすごい、半端ない!!執着がある。

 

本当に、本当に、ものすごい、、、執着だ! 無なのに。

 

あまりの執着で、戻れないこともある。

一体化して、執着ぶりに気づかないことがほとんどだ。

 

私はずっと恐ろしいほどに執着してきた。

それを認める。

 

神を愛し、愛されることを、

愛を拒むためだったことを。

 

愛を恐れている。

 

すべて(今まで対象だと思っていたもの、人、身体)は、神様のものです。

だから、神様の元へお返します。

 (神のものは神にかえせ。というイエスの言葉をお借りしている)

とか、

本当に赦せなかったけど、私は赦します。

といって、手を離す。

 

残った「わたし」は誰か?

 

出てしまっているときも、

赦さないとつかんだときは、

何度も何度も何度も、

「私は誰か?」と尋ね、

手を離そう。

内側へ向かおう。

 

そして、

いかに執着しているか、

執着しているわたし、を見ていこう。

 

 

「そのためには非常に強固な無執着がなさなければならない。

水中に捕らえられた人が、必死で水面に上がろうと努力するに等しい真剣さと熱意が必要となるだろう。」

 

ラマナマハルシ

 

常にゴールに導かれていることに感謝します。