私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

恋をしているような

今朝、夢を見た。

 

知らない男の人に会うことになっていて、

何だか分からないけれど

 

もしやこれは?と

恋をしていることに気づき始める。

 

完全に愛し合ってしまうこと、

 

先で

愛に溶け去ってしまうことを恐れている。。

 

でも

とてもとても求めている!

 

愛し合いたい。

 

 

目が覚めた。

 

目が覚めても、

まったく同じ感覚がしばらく続いた。

 

 

恋い焦がれている。

 

愛しい。

 

愛し愛されたい。

 

でも溶け合ってしまうことが怖い。

 

でも、恋してたい。

 

これを感じ続けたい。

 

 

仕事に行く前に

両親と他の話をし始めたら、徐々に消えていった。

 

けど、

 

これを感じさせてくれて

幸せだったなあ。

 

またまた、

神様が見せてくれたんだ!

 

もっと見たい!

 

ありがたい。。

 

 

体ではないなら、私は何なのだろう?

 

体ではないと教えて欲しい!と思う前に、

感じたことがあった。

 

体ではないなら、

この世界に私が幸せである原因も、不幸である原因も

まったくないんだ。

 

体ではないから。

 

誰かに怒っているっていっても、

体じゃないなら、相手という体もない。

 

本当に本当に、そこに原因はないんだ。

 

体でなかったら、

なんと幸せなんだろう!

 

ああ、もしかしたら、

Jesusに

槍で刺された時とか、騙されたように見えるときに、

どう感じて見ていたか、

私に代わって見て欲しい。と祈っている。

 

垣間見、とも言えないほどに、

ほんの一瞬だったかもしれないけれど、、

 

もしかしたら、、、

ああ、

こうやってJesusは見ているのかもしれないな、、と

ほんの少し、感じたんだ。

 

それは祈りの答えだったんだ。

 

 

なぜなら、それを感じた時、

とても驚いたから!

 

私には分からなかった、、

 

私には分からない感覚で、

ありえない考えだから。

 

 

だから、

 

ああ、だったら、

体じゃなかったら、どんなに幸せだろう!

 

自由で争いもなく、

幸せだ。

 

そう確かに感じたから、

体じゃないことを教えて欲しい!と望むようになった。

 

体じゃないって、幸せなんだ!

 

それを望みたい。

 

そう思ったから。

 

 

それを思い出した。

 

 

間違っているかもしれないけど、

ほんのちょっとかもしれないけれど、

 

確かに感じた。

 

だから、自分を過小評価しすぎないで、

 

自分に、

 

感じてくれてありがとう。

神様から見せてもらえて、良かったね。

もっと見せてもらたいね!

 

受け取れて良かったね。

ありがたいね。

 

そう自分で認めてあげたい。

 

それを感じたことを

忘れないでいたい。。

 

 

神様、もっと教えてください!

 

今、ちょっとの意欲を差し出そう。

 

 

 

職場で奇跡

今日職場で驚いた。

 

ええーー!

 

本当にまったく思いがけないことだった。。

 

 

聖霊にyesと言うと、

 

こんなにも

スムーズに展開していくものなのか!!

 

何もしてないのに。

 

 

ありがたい。。

 

 

今日も神様が見せてくれた!

 

ありがとうございます。

 

 

もっと見たい!

 

もっともっと見せてください!

 

 

 

聖霊のせいにしていた 

何度もはまるパターン。

Instruments for peaceも何回かやってみた。

 

私が

A)何かが現れた時、これはガイダンスなのだろうか?ということ について考える時、

B)不安、恐れ、怒り 聖霊はっきり教えてほしい と感じます。

なぜなら、

C1)聞き取れない私、はっきり教えてくれない聖霊 が責められるべきであるし、

あるいは未来に

C2) 分からないまま孤独、不安地獄に置き去りにされる ことを恐れているからです。

これらのことは私が、

D)聖霊に、神に愛されていない。平安じゃない。ガイドされてない。

  聖霊に見捨てられている。

ということについて、正しいことを証明しています。

私が求めていた、期待していたのは

E)聖霊から私が分かるようにはっきり教えてほしいこと です。

 

私は自分にとってただ一つの目的である心の平安と再びつながるために

D)聖霊に、神に愛されていない。平安じゃない。ガイドされてない。

  聖霊に見捨てられている。

という信念に疑問を呈し、

私は自分にとってただ一つの目的である心の平安と再びつながるために

自発的に、

E)聖霊から私が分かるようにはっきり教えてほしい

という欲求を手放します。

 

まず、

責められるべきなのは、私だ、と思おう思おうとしている。

聞き取れないのは私が悪い。と。

 

その下で本当に思っていたことは、

 

ガイダンスが分からない。

聖霊、あんたが教えてくれないからだよ!はっきり教えてくれよ!

と言って、思いっきり聖霊のせいにしていた。

 

それにさえ、気づかなかった。

 

私が間違っているはずないよね?

 

聖霊、はっきり教えて欲しい!と思うことが

なぜ不足の信念なわけ?

 

全然飲み込めない。

 

 

あなたは常に聞いている。

自我か?聖霊か?必ずどちらか。

今どちらに耳を傾けているのかな?

 

聖霊から、ふっとそう言われた気がした。

 

必ず”どっちか”を聞いているのか。

 

本当に正直になるなら、こう言うべきだ。

 

「私は神、聖霊から聞きたいと思ってない。

神や聖霊の声を聞きたくない。

自分が正しく、自分で決めたい。そう思っているんだ。」

 

この世界の選択肢について

タイムライン上のこれから未来に起こるだろうと信じていて、

ガイダンスかどうか?迷い不安になることに原因を見たかった。

 

それよりも先に、

神から離れたいと決断した結果、

感じている不安、恐れなんだ。

 

自分が先に選択した結果を、

聖霊のせいにしたかった。

 

聖霊

あなたがはっきりと教えてくれないからだ!

 

今平安ではない、愛されていない、神から見捨てられたもののように

不安、惨めさ、出口のない暗闇に孤独でいるような感じ、葛藤を感じている、

 

それは

聖霊あなたが私に分かるように、はっきりガイドしてくれないからだ!

 

と。

 

後付け、イチャもん、責任転嫁。

 

私にとっては

いかにもまっとうそうに思えていた。

 

しかも、

私が聞き取れないから、と仮面をつけていて

これをやっていることにさえ気づこうともしなかった。

 

当然正しいよね、と

この信念を疑うことすらできなかった。

 

ああ、

私は聖霊のせいにしていたのか。

 

それだけ、恐れているんだ。

 

今は表面的でもいいから、

さっき感じたように

 

本当は解放されていくことを恐れている。

どんどん自由になっていくことを恐れている。

 

ただ、

ああそう感じているんだなと認めたい。

 

 

散々今まで自分がやってきたパターン。

 

今、葛藤や不安に感じていることの証明に、

聖霊がはっきり教えてくれないから。と言って責任転嫁してでっち上げに使うのを辞める。

 

自分が直面していることよりも先に選択した結果なのに、

愛されていない、無価値なものと感じていることを

 

「今、私、愛されていません!神の子ではありません」という理由に、

聖霊、あなたがガイダンスを教えてくれないからだ、という言い張り、言い訳を辞める!

 

 

そう決めた。

 

 

それが分かって良かったね!

 

そう聖霊から言われた感じがした。

 

 

しかし、、今は

これを書いていて、思いきっきり責任転嫁だと感じるけれど、

全然気付けなかった。

 

何度も出てくるかもしれない。

何度もやるかもしれない。

 

その都度、何度も思い出したい。

 

 

そう決断したら

次に、感じたのは、

 

この世界、時間軸、未来にあなたはいない。

 

何度も言う。

一生懸命、聖霊に従う私=体だと思っている。

過去があって未来にいると思いたい。

それは体だと信じているからだ。

 

そう感じた。

 

 

そうか、、、

 

私が自分を体だと信じているからだ。

 

 

そう信じたくて信じている。

 

 

今日のレッスン91

奇跡は光の中で見える。

 

奇跡は光の中で見える。

肉体の目はこの光を知覚しない。

しかし私は肉体ではない。

 

私は何なのだろう?

 

 

ああ、忘れてた。

そういえば今日のレッスンじゃないか!。。

 

このIFPをやった後にスッと入ってきて、

広がりや何か大きな感じが戻ってきた後、

 

私は体じゃない。

なら私は何なのだろう??

 

これが離れなくなった。。

 

 

知りたいーー!!

 

知りたいぞ!!

 

 

私は何なのか?

 

 

今日、自分の顔を見ても、

これ何なの?と言う感覚で見ていた。。

 

何か、一度も知らなかったもののように感じた。

 

今まで、

テキストを読んで、ああそうなのかも、、と思っていたけれど、

最近は、先に心が感じていて、

ワークブックを見たりすると、そう!みたいな感じがすることが多くなってきた。

 

体ではないとか、

光とか、

そっちの方が外側にあるような、

本当ではないように感じていたけど、

もしかしたら逆なのかもしれない。。

 

そう感じるようになってきた。

 

そのように聖霊が導いてくれている。

 

 

私は体ではない。

 

 

今まで何度も何度も、勉強会でも聞いてきた。

 

 

今まで、

へえ、そうなんだ。。くらいにあまり関心がなかった。

 

体じゃないって教えて欲しい!と何度聞いても、

全然スルーしてそう思えなかった。

 

知りたくないと思っていたのだと思う。

 

 

なのにこれ、、

 

今日、自分の内側から感じて、垣間見て、

聖霊からそう教えられた途端、、

 

本当にそうなのかもしれない、、と信じたくなった!

 

そして

知りたい!

知りたい!という思いが溢れる。

 

これ、

すごくすごく知りたい!!

 

本当に体じゃないって知りたい!

教えて欲しいって思ってる。

 

私は体じゃなかったら

何なんだーーー!?

 

本で読みました。とか

人から聞きました。では全然ダメらしい。

 

実際、

文章とか誰かがこう言ってたこととか、記憶に残らずすぐ忘れてしまう。

 

だから、

聖霊に教えて欲しいです。

 

体ではなかったら、

私は何なのですか?

 

どうか

エス聖霊

教えてください。

 

 

AかBか?の葛藤

よくあるパターン。

 

憂鬱で

ガイドがはっきり分からない。と感じている。

 

分からない。。

 

右か左か?

 

AかBか?

 

で迷う。

 

ものすごいプレッシャーを自分で自分にかける。

 

どちらを聖霊はガイドしているのだろうか?

 

 

仕事を辞める時や、

輪島の動画の字幕入れの時は、

 

はっきり、

あ、これは聖霊の広がりを感じる!

ガイダンスなんだ!と

 

いつももやもやして

優柔不断なこの私にさえ、はっきり教えてくれた。

 

具体的なことになると、

途端に聞いて答えを受け取ることが怖くなり、

 

多分導かれているのだろうけど、

 

聞こうとしないで耳を塞いでしまう。

 

怖い。

 

行為者としてちゃんとやれてるか?に囚われ始めて、

地獄的知覚になる。

 

ここ数日、

意識してないのに

すべてを聖霊の流れに任せようとしていると、

 

本当に簡単に物事が進んでいく!

 

何にもしてないのに、

 

周りが勝手に整われていく。

 

その時、

とても平安で聖霊を信頼している。

 

 

気が進まないことを渋っていたら、

 

父が普段入れるはずのない、

早い時間に風呂が沸かしていて、

 

しかもこれから父が入ろうとするのを辞めて、

先に入っていいよ!などとご丁寧言ってこられる。

 

なんだこりゃ〜!?

 

私の感じている嫌さとは関係なく、

勝手に周りが整われていく。。

 

大爆笑が止まらなくなった。

 

ええーーー!

 

そういう時、

嫌な感じを感じていても

吹っ飛んでとても軽い感じだ。

 

信頼していて、

なーんにも心配することなくて、

安心している。

 

とても広がりを感じていて、

 

ただ聖霊にお任せしていればいいんだ。

そうすれば、こんな奇跡を見せてもらえるんだ!

 

背中を押されている。

 

流れに身を任せて、

幸せだなあ。

 

そんな感じを

特に仕事を辞めることを

あの幸せな広がりに乗って決めてから、

 

たびたび感じさせてもらえる。

 

だから、

どっちだろう?

ちゃんとやらなければと

迷っている行為者と同一化している時の地獄的な知覚、

 

不安と恐れ、

自分で責任を負わなければならないプレッシャー、

闇に覆われて

狭いところに閉じ込められているような被害者的な思い、

一人孤独な感覚になる。

 

 

この違い。。

 

 

今気づいたこと。

 

聖霊

神に委ねようとしない時、

 

ガイドが分からないと言って、

不安になる時、

 

あの広がりと幸せ、

流れに任せていれば

神にまかせることが嬉しく幸せ、と感じたまま、

 

そのままで飛んでいくことの方を

実は恐れているんだ。。

 

そうか。。

 

怖いんだ。

 

完全に手を離すことが。

 

愛と幸せが。

 

 

また

Mr.NobadyのNemoのように

 

お父さんかお母さんかの選択を放棄する。

立ち去る。

 

これを思い出した。

 

 

私は知っている!

うまくやれる!

神よりも。聖霊よりも。

 

そう信じている時、

本当に死にそうに不安で苦しい。。

 

 

ああ、そうだった。

AかBか?が、本当の選択肢ではなかった。

 

聖霊

私にはまったく分かりません。。

あなたに委ねます。

平安で、幸せでありたいから。

 

と言って、

すべてから手をはなして委ねるか、

 

どっちかだけが

選択だった。

 

ということを思い出した。

 

 

平安が戻ってきた。

 

 

最近、これを1日の間で

何度も繰り返している。

 

 

私は神よりも知っていると信じて

不安と恐れにまみれるか、

 

私にはまったく分かりませんと認めて、

 

今、

すべてを神にゆだねるかどうか

 

それだけが選択だと

忘れないようにしたい。

 

 

神を信頼してゆだねること。

 

それだけが

私の平安であり幸せなんだ!

 

もう第一原因にはなりたくない!

 

不安と恐れ。

葛藤。

 

もう、いいです!

 

聖霊

あなたに決めて欲しい。

 

委ねたい!

 

Davidが動画で言っているように

本当にそう聖霊にゆだねて生きたい!

 

なさっていただきたい!

 

神が完全な幸せを意志しているなら、

そうありたい!

 

今、平安で幸せでありたいから。

 

ああ、、。

 

聖霊を感じ、

ほっとすると聞く意欲が出てくる。

 

 

心を開いて

聞いて従っていきたい。

 

もう一度。

 

 

私に代わって

あなたにすべてを見てもらいたいからです。

 

神に帰りたい。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

どうか教えてください

ずっと怒りを映像のせいにしていた。

 

心の外側のせいにする。

 

あれが悪い。

 

あの人が悪い。

 

私は悪くない。

 

 

自分で自分に何を隠しているのだろう?

 

ずっとそうしていたいだろうか?

 

いいや。

 

何かのせいにしていたい。

 

心の奥の方が

ぽかんと穴が開いているように、

 

寂しい、

悲しい、

満たされていない、

欠けている、

どうせ救われない、

愛されていない、

これからも愛されないだろう。

 

そんな思いがずっとある。

 

愛と助けを求める泣き叫び。

 

それを隠しておきたい。

 

今浮上しているこの声をかき消そうとしないで、

聖霊に見てもらいたい。

 

聖霊どうか助けてください。

 

 

あなたはこれをどのように見ているのですか?

 

どうか教えてください。

 

 

楽しんで!

数日前、

職場で辞めることについての手続きが

進められて、整われていった。

 

有給まで丁寧に入れてくれた。

 

何の努力なしに。。

 

幸せと広がりを感じながら。

 

聖霊

奇跡を見せてくれてありがとう!

 

周囲の状況に罪悪感を感じ始めて

聖霊に祈ると、

 

仕事中なのに

 

やっぱり

何にも心配いらないよー!という光、

喜びと笑いが溢れきて幸せを感じた。

 

 

聖霊が決めたことだから、

 

聖霊に委ねよう。

 

 

今日は職場で

あの人が悪い

あれが悪いという正当化が炸裂していた。

 

怒り。

恐れ。

 

自分は被害者です。

 

その時、

エスをすっかり忘れていた。

 

槍で刺されて、

その人に罪を見ないとか愛を感じる方が、狂気なんじゃないか?

と思ってしまって

 

思わず笑ってしまった。

 

自分の方が狂気だと思ってない。

 

はい。

狂ってるって認めたくないです。

 

仕事をしている時、

目的を

なかなか赦しにできない。。

 

帰宅してほっとする時間を持つと、

ようやく内側から広がってくる喜びや安心を感じる。

 

すると、

 

 

楽しんで!

 

 

この広がりをもっと楽しんで!

 

 

楽しもうよ!

 

 

一緒に飛ぶ!

 

 

そう感じた。

 

 

そうか、、。

 

もっと楽しんでいいんだ。

 

 

以前から

楽しんで!と伝わってくることがあるけれど、

 

なんだか間違ってるんじゃないかとか

自分に楽しませるなんて、と思っていた。

 

自分に楽しんでもいいんだよ!って

言ってあげよう。

 

そしてそのガイダンスに

従いたい。

 

広がりに

委ねたい。

 

もっと楽しむことを

自分に赦してあげよう。

 

楽しもう。

 

 

聖霊

どうか導いてください。

 

私には神への道がわかりません。

 

何が幸せなのか、

何が喜びなのか分かりません。

 

どうか道を示してください。

 

与えてください。

 

あなたについていきます。

 

今日も導いてくださり

ありがとうございます。

 

 

信頼とガイダンス

今日見てみる感じがして、

 

2019年4月のカースティン&フランセス 信頼とガイダンス 葉山リトリート

の動画を見直してみた。

 

今になってようやく、

ああ、そうなんだ、、と思った。

 

何にも分かってなかったな。。

 

 

今もまだ分かってない。

 

 

手を差し出して!

 

 

そう聖霊からよく言われる。

 

 

リトリート中にみんなでやった、

 

目隠しをして

聖霊としてのmighty companionに手を引かれながら

 

彼を信頼して導かれることに身を委ねた、トラストウォークを思い出す。

 

Davidが動画で言っていたトラストウォーク。

 

 

一歩一歩、だ。

 

 

step by step

 

 

聖霊のガイダンスを受け取ってそれに従ったら、

 

なしていただいたら、

 

それが

どんなに小さな気づきや喜びや幸せに感じたとしても、

 

自分を褒めてあげよう!

 

よーし!

よくやったね!

 

素晴らしいね!

 

聖霊に従って

その喜びを今日も感じられたね!

 

導いてもらえて、

本当にありがたい。

 

ありがたいね。。

 

幸せだね!

 

それが私の喜びだね!

 

私の幸せだね。

 

人生は、ガイダンス。

 

それが

私の喜びであり幸せなんだね!

 

一つ、一つだよ。

 

コーヒーを飲もうとすると、

聖霊から一緒に飲もうと言われて

 

ああ、そうだったなと思い出させてもらい、

幸せを感じながら飲んだ。

 

嬉しい。

ありがたいな。。

 

立ち止まって耳を傾けて、

聖霊に従ったんだね。

 

だから幸せを感じるね。

 

それは素晴らしいね!

 

 

そう言って

自分を励ましてあげよう。

 

私の本当の望みと幸せを感じられたこと

それに従ったことに

喜んであげよう!

 

私と一緒に。

 

そうしていこう。

 

 

他の誰でもなく、

 

いつも誰かのせいにしたり、

他の人と比較して、

 

自分を痛めつけて

小さな鞄に閉じ込めてチャックをし、認めてこなかった。

 

全然従えてない。と言って

小さな小さな一歩を踏みにじってきた。

 

誰かのせいにしたい。

だけど、他の誰でもない。

 

私自身がそれをしてきた。

 

ああ、

自分がそうしてきたんだな。。

気づかない、というよりも

 

小さなことと自分で自分を馬鹿にしたり

気づかないようにしていた。

 

自分で自分をないがしろにしていた。

 

自分が自分で蓋をしていたら、

目も当てられないじゃないか。。

 

だからもう、

そういう想念が浮上しても、

 

それは聖霊に秘密にしないで見せていこう。

 

それに値しないという思いがあることを

聖霊に秘密にしないでいこう。

 

愛である聖霊

透明でありたい。

 

助けを求め、

素直でありたい。

 

 

そして

私の本当の喜びと望みを

私が一番に

応援してあげるんだ。

 

救い上げてあげよう!

 

そうだね。

そうだね。

 

エスに見てもらうこと。

 

信頼してガイダンスに従っていくこと。

 

確かに従った時、

受け入れた時に感じてきたように

 

感じるように

 

私の喜びと幸せだよね!って。

 

 

間違っているかもしれない。

 

いつもそうやって先に進まない。

 

 

間違ってもいいんだ。

 

ああ、間違ったかもしれない。

ガイダンスじゃなかったかもしれない。。

 

今日も何度も何度もあった。

疑いがあった。

 

罪悪感。

 

 

だけれども、

 

本当の望みは

聖霊の見方に代わって見てもらいたい。

 

その目的のために

聖霊に従いたいんだという意欲を差し出したんだね。

 

それは決して

ダメでもなく、無駄ではなかったんだよ。

 

今この瞬間から、

 

一歩一歩、

導いてもらおう。

 

自分のレベルがどこにあるかとか、

人と比べてダメだな、、と自分を踏みつける思いはあるけれども、

 

よくやったね。

 

よくやってるね。

 

 

本当の望み、思い。

 

神の救済計画のため。

 

それが私の幸せだから。

 

それ以外ない、本当だと思った。

 

それしか私が幸せである方法がない。

 

 

ありがたい。

 

 

そう思って意欲を差し出したんだ。

 

 

神を信頼したい。

 

 

神を信頼したいと思う

自分を信頼してあげよう。

 

応援するんだ。

 

他の誰かにしてもらうのではなく、

私が。

 

もう一度。

 

カースティンがリトリートで言っていたことを今思い出した。

 

自分に優しくあってください。

 

小さな赤ちゃんを優しく包み込んで抱きかかえるようにして。。

 

神様、

ありがとうございます。

 

 

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