私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

あのインタビューは私は間違っていたいと望む決断の機会でした

7/7の日記より:

 

7月合宿まで、のり子さんから毎回耳に入ってきた言葉があった。

 

「2018年カースティンリトリート後の10月31日から始まった。

まさかこれがコースだと思わなかった!

奇跡講座がまさかこういうのって知らなかったと思った。」

 

その翌々日に、自分自身も三崎口のインタビューを受け、

今まで触れたことのない猛烈な恐れ、無価値感、恥、罪悪感に触れた。

 

カースティンリトリートでは愛されるという知覚があったり、

抵抗がありつつ、みんなからハグされ、与えられる奇跡があった。

 

それが全部ひっくり返ったように知覚した。

とんでもない。

コースなんて知らないって言いながら、何回でも生まれ変わって死んでいい。

 

そんな知覚があって、その場にいて触れていた。

なのに、

のり子さん個人のことにして、今まで他人事のように聞いてきました。

 

触れたくない。

見たくない。

 

今年5月リトリートでは、

スタックしていて、見ないことにするという決断が起きていると言われ、

殺したい、情けなさ、惨めさや、できない自分裁きを止められなかった。

 

みんなはできているのに、どうしようもなく情けない、勝とうとして勝てないという信念や感情が湧くのが、

すでに、

自分が欠けているものだと信じていて、

無価値感を感じているからだ、

自分はどうしようもない無価値だと信じているからだ、と認めたくなかった。

 

だから、

5月のリトリートでは最悪でダメダメだった、情けない、ダメにしたと感じた。

 

肝心なところで自分にエクスプレスさせなかったのは、

私はそれだけ、

無価値感に触れることを恐れているんだ、

すでに自分が無価値だと信じているから、と認めないともうどうにもならなくなった。

 

7月合宿後の今なら、素直に言えます。

 

私は確かに、

見ないことにする、触れないことにする、と決断していました。

 

7月合宿、

聖霊の導きで、自分に触れることを赦し始めた。

 

リトリートでカースティンが言っていた、

「あなたのためのリトリートです。

あなたのために日本に来ました。」という言葉が、今染みる。

 

ああ、このためなんだと

2018年のあの時の経験から、今までが一本に貫いて、ああ、、となった。

 

映画のせい、ラファエルのせい、インタビューのせい、お金のせい、兄弟のせい、

見ないことにしてきた、

この得体の知れない感情、無価値感、屈辱、罪悪感、信念、願望について、触れさせてあげて、

打ち明けさせてあげて、

 

”Are you willing to be wrong?”

「これについて、あなたは間違っていたいですか?」

 

私はこれが間違っていたいと望む

 

つまり、

私は幸せを望む、

愛を望む。

 

そう選択し、決断できる機会だったんだ。

椅子に座って答えた、あのインタビューは。

 

無価値感を感じて終わり、じゃなかった。

 

そこで、

間違っていたいと望み、選択し、

隠すことをあきらめて、降参し、

聖霊を受け入れると望み、決断するためだったのか。。

 

間違っていたら、幸せらしい。

 

それだけが幸せなんだ。

 

無価値感を感じているそこで決断するのに、

勇気と覚悟がいる。

 

それ以前に、感じていることを口に出せなかった。

 

本当に望むものと望まないものの区別がつけるようになりたい、

見分けがつきたい、

そう望むんだと言われた意味が、今よく分かる。

 

俺が正しい!を諦めて、負ける気はないね!と言い張っていて、

あのインタビューをやめますと言って止めてしまった。

 

そう決断しても、私は裁かれなかったし、殺されなかった。

 

はい、あんただめね。と裁かれてたら、今、ここにいない。

 

私が間違っていたことを望む。

そう決断する機会は、あれ以降も与えられていた。

 

そのために、現れているのか。。

自分の願望ゆえに。

 

 

まさか、こんなのだと知らなかった。

 

無価値さを見ないことにすると決めて、勝とうとしたり、ましになろうとして、

忘れ去ることにしてきたけど、

 

それが幸せを望み、決断する機会を、

逆に自分から奪っていたとは。。

 

感じていることに、正直でありたい。

 

私が全部、間違っていたい。

無価値であるものという信念、分離したいと願望した私が間違っていたことを

神様、どうか見せてください。

 

0.1秒でも、間違っていたいと望む私には価値があり、

信頼できる。

 

間違っているかもしれません。

 

正気の決断をしようとしていて、間違っていたいと望んでいる私だけが、

唯一、まともで信頼できると思います。

あとの私は全部狂っていて、病気で、異常で、おかしいんだな。。と感じ始めました。

 

俺が正しい!俺は間違ってない!お前が悪い!お前が間違っていて俺は正しい!

か、

私が間違っていたい!間違っていることを望む!

のどちらかしか、望んでいなかった。

 

宇宙以前とか、宇宙始まってから、どの瞬間も、

俺が正しい!俺が間違っているはずがない!とだけ言い張り続けてきたのか。

 

間違っていたい、なんて願望したことなかった。

そう望むことが愛されることを受け入れたい、

愛を望む、ということで、幸せだなんて知らなかった。

 

それを宇宙以前だか、宇宙以降だか、、

そう望み始めるなんて、本当に奇跡でしかない。

 

自分では絶対無理。

自分が間違っていたい!なんて、

夢見る私からしたら、真逆の狂った決断と願望をすることは絶対あり得ない。

願望する他の選択肢があることを思い出し、気づくなんて、あり得ない。

この自分では絶対絶対、無理だからこそ、

 

神が全て手配して、なさっていただいている。

ここまで導いてくださることの全ては、あなたからの奇跡です。

自分1人では、絶対あり得ません。

聖霊、あなたがなさしめていただいていたんですね。

 

奇跡でしかない。

ありがたい。

 

もっととんでもない無価値感に触れて、また兄弟ととんでもないものが勃発したとしても、

聖霊、自分にも、あなたにも隠さず、全て見せたいです。

 

そしてこれが間違っていることを望みたい。

そのために、全部現れてくれているんだ。

 

0.001秒の意欲を差し出したい。

 

聖霊あなたが、

今、この瞬間、

すべてを手配してくださっていることに信頼して、開きたいです。

 

0.1秒。

 

これを書いてる暇なんてないんじゃないか、

優先順位が違うんじゃないか、

疑いと、突っ走ってる感じがします。

 

それでも自分が自分に忘れないために、残します。

 

 ありがとうございます。