3月合宿後、
罪悪感と恐れが続いている。
桜旅のためにレンズ類などを集めている時も、
仕事していて肌着を数えている時も関係なく、パニック。
それでも、
あの時、あーちゃんの目の奥から響いてきた、
「順ちゃん、誰だか思い出して!」
兄弟からのこの呼びかけに、応える。
応えたい。
奥底から湧いてくる。
そのために、
聖霊にすべての時間、命を差し出したい。
あーちゃんとの関係を振り返ると、
金沢、静岡の旅や、
去年の9月の合宿でカオスと言われたり、
11月の闇のトリガーだったり、12月リトリート後にも投影したり、されたり。
今回の合宿のことも、
すべて、
この願望、目的のために現れていたのか。。
あれだけ聞きたくないと思っていたのに、
あーちゃんの感じたり思っていることを、聞きたい、聞きたいと自然に心から湧いてくる。
それはわたしの思いだから。
あなたはわたし、と感じたからか。
もう一度、合宿映像を振り返って見ている。
1月合宿の映像を見てみると、
今度は自分が兄弟を抱きしめていた。
恥ずかしい。嫌だ。
罪悪感を感じる。
あんなの私じゃない、
愛なんかじゃない、私は。
そうやって否定したくなった。
赦せない。
自分を愛でいさせたくない。
私が一番、私が憎い。
「自分の泣き叫びを見つけてくれてありがとう。
一緒に抱きしめていこうね。」
今、自分が聞く必要のある言葉だ。
自分が兄弟に話している言葉は、ほとんど聞き取れなかった。
言葉は必要なかったし、むしろ邪魔だった。
聞いてくれない!と言うのは言葉ではなく、
自分が今、何を感じているかを、だった。
無視してきた。
私の泣き叫びを。
形だけを整えれば、それを見なくて済む。
で、何やってたんだろう。
打ち明けると、
無駄なことをするな、そんなこと言うなと怒られるだろうと
勝手に決めつけてきたけど、
それを積極的にしている兄弟のせいにしていたのは、
自分がそうするのを恐れていたからだった。
兄弟全員、完全に両手を広げていて、
さあ、感じたこと、思いを晒してください、
という場が与えられるのが怖い。
逆だった。
癒されることが怖い。
カースティンリトリートでのみんなからハグされた時に感じた話を、
ゆっくり話せばよかったのに、
さらっと話して終わりにした。
奇跡の話は避けたくなる。
罪悪感、無価値感に触れたくないから。
ラファエルの英語のせいにしていたけど、
わたしの思いを聞こうとしないのはわたしだ。
やはりピンポイントでカメラを向けられると、
罪悪感や無価値感に触れる。
撮らないで!と。
私の愛と助けを求める泣き叫びしかないじゃないか。
もう無視しないで、感じていくことを自分に赦したい。
奇跡も闇も、
聖霊と一緒に通り過ぎて、見てもらいたいです。
わたしも、兄弟も、誰だか知りたい。
思い出したい。
兄弟からのあの呼びかけに、応えたい。
思い出すと、
自然に力強く、わたしを貫く 。