私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

兄弟の光だけを信頼したい

おととい、

以前奇跡講座の話をした例の彼女と

仕事で一緒になって話をした。

 

聖霊と一緒に聞いてもらおう。

 

疲れているということで、

今週大変だったという話を聞いていた。

 

私の愛と助けを求める声として受け入れたい。

真実を教えて欲しい。

 

聖霊に祈る。

 

 

途中から、

心の中で光を感じ始めた。

 

同じように疲れたと話していたのだけど、

その光を感じ始めて、

 

ああ

嬉しい。

ありがたい。

 

そこに

その光をそのまま置いてくれていてありがとう。

 

私が開いていったのを感じた。

 

癒され、

喜びを感じて、

一つで安心した。

 

以前から何度も、

このような会話というか、

 

彼女の

大変だ、疲れたという話を聞いてきた。

 

でも、

彼女の中に光を感じて、

 

私が彼女と一つだったということに気づかされ、

ほっとして嬉しくなって、癒されるということはなかった。

 

一度も。

 

むしろ、

聞かされたくない。。

疲れてるのは私も一緒だから。。と拒絶していた。

 

 

今、金沢〜輪島での奇跡を思い出す。

 

のり子さんを自分として見たいんだ。

自分自身の泣き叫びとして受け入れ、聖霊と共に聞きたい。と

 

最近、

自分ことをようやく

 

愛と助けを求める声として認識してあげよう、

助けてあげたい。

聖霊に助けを求めよう。

 

そう意識して

思いを向けていくようにしていた。

 

彼女のことも

そのように聖霊に見て欲しいんだ!

 

自分のことをそう見てもらいたいし、

兄弟のこともそう見て欲しい。

 

そう思っていた。

 

 

ずーっと続きはしなかった。

 

話している間だから、15分くらいだっただろうか?

 

また例の、

大したことなかった。とスルーしそうになっていた。

 

でも

その後、幸せな感じはしばらく続いた。

 

嬉しかった。

 

兄弟の奥には

私が見失っているもの、

 

真実

光で在ってくれている。

 

わたしが勝手に貼り付けた解釈の後ろに。。

 

 

ありがたかった。

 

ふと浮かんだのが、

前にのり子さんから勉強会で言われた言葉だった。

 

よくやってるね。

 

頑張ってるねって

優しくしてあげようよ。

 

そう声をかけていた。

 

 

他の誰でもない、

自分自身にそう声をかけていた。

 

わたしが一番聞きたい言葉で、

それは聖霊からの言葉だった。

 

ありがたい。。

 

 

兄弟が誰なのか教えて欲しい。

 

そう祈ってきたし、

今も教えて欲しいと願っている。

 

昨日の勉強会で、

 

それは

その願望の答えだったんだよ。と教えられた。

 

 

また例の

あれは大きな奇跡ではないし、大したことない、と

隅に追いやろうとしていた。

 

 

それでいいんだよ!

 

兄弟が誰だか知りたいという祈りが、

答えられたんだよ!

 

それは素晴らしいね!

 

それを素直に受けとっていいんだよ!

 

 

聖霊から

そう言われているのを感じる。。

 

そうか。。

 

 

いつもいつも人と比較して、

例えば

のり子さんのお父さんは神だった!という体験くらいの

素晴らしい知覚がないと、わたしは奇跡を受け取れていないんだ。

 

と勝手に判断していた。

 

判断して

わたしには愛を受け取る資格はない。と決めつけておく。

 

自分が受け入れることを赦している分だけ

受け取れる、ということを素直に認めたい。

 

奇跡に難しさの序列はない

という真我なるハートの動画を聞いている時も、

 

あの人は素晴らしい奇跡を経験していて、今

わたしは惨めだ。

愛がない。

愛されてない。。

 

と感じた。

 

 

神秘の閃光か?稲妻か?核爆弾か?奇跡に難しさの序列はない 動画↓

www.youtube.com

 

 

ふと思い出した。

 

このカースティンとフランシスのリトリートで

Davidが話している時、

 

わたしは後ろの席で

カメラのファンクションをさせてもらう前だったのだが、

 

Jesusにわたしがやります。と言われ、

想像しただけなのに
カメラ越しに兄弟をどう見ているのかを感じて、号泣した後だった。

 

無罪性を。

 

まったく罪を見ないで

愛と美しさしか見ていないんだ、と。

 

UPするのに抵抗があるけど載せておきます。

その時感じた記事↓

mokumokuchang.hatenablog.com

 

今までの習慣のように

Davidは悟っていて特別、という感じで見れなくて、

 

その場にいる全員に愛と感謝を感じていて

 

Jesusに彼らが誰なのか教えてもらっていて

 

それは、わたしにとって奇跡だった。

 

こうやって、

私が信じてきたことを

白紙に戻してもらうんだ、、と。

 

 

それを感じていたじゃないか、、。

 

ということを思い出した。

 

 

動画のタイトル:

奇跡に難しさの序列はない

 

わたしには全く分かりません。。

 

なぜなら、

序列を作ることしかしていないからです。

 

それが一瞬、まっ平だったらと感じた時、

 

その恐ろしさというか、

とんでもなさ、ありえなさ、、を感じつつ、

 

言葉にすると、

 

まったく罪がない

ということなのだろうか、、

 

何なのか分からないけれど、

それを知りたい。

 

泣きながら

そういう思いが湧いてくる。

 

 

わたしの中で

工場という

勝手に除外していた場所、人間関係。

 

騒々しく、忙しく一時もじっとしていられないような場所。

静けさとは無縁だと思っていた。

 

緊張感の連続。

 

見下す思い。

ほとんど全員と敵対しているような知覚。

 

勉強会や、David、カースティンのリトリートのような

 

静けさや

奇跡講座だとか

目覚めとはまったく無縁のように見えていた。

 

そのような場所にいるのは、

自分が罪があるからだ。

 

そう思っていたかった。

 

 

そのように解釈していた

意味付けしていた工場、という場所で、

 

兄弟の中に

真実の

自分自身の光を感じて癒された、

 

兄弟が誰なのか、

自分が誰なのかを思い出す機会を与えられたことが、

 

本当にありがたかったし、

 

大きかったんだ。

 

 

小さいことのようにしたかった。

 

兄弟が誰なのか知りたいという祈りが答えられた。

 

そうだったんだ!

 

それを認めて、受け入れてあげようよ。

 

 

場所も関係ないんだ。

 

大小はないんだ。

 

愛と助けを求める声に、

大小がないのと同じように、なのか。。

 

 

願望と決断。

 

 

そうか。

そうなんだ。

 

 

聖霊、ありがとうございます。

 

兄弟を見せてくれてありがとう。

 

 

もっと見たい!

 

この兄弟の奥の光、

 

これだけを信頼したい!

これだけしか見たくない!

 

もうもう、

 

この真実だけを

兄弟に見たいんだ!

 

何も邪魔したくないんだよ!

 

兄弟は、

わたしが見失っているこの光を

そのままに持っていてくれて、

 

自分だと思っている自分を、

 

それはあなたじゃないよ!

こっちだよって

 

教えてくれている。

 

待っていてくれているんだ。

 

わたしが気づいて、受け入れるまで。

 

それは過去

失敗だった、と思っていたその場所でも、

 

そのような機会を与えていただいていることが、

ありがたい。

 

 

ユタでDavidに言われた。

 

奇跡はいつでもどこにでもあるんだよ!

 

それ、本当かもしれない。。

 

おとぎ話的に聞いていたけど、

そっちの方が真実なのか?

 

間違っているかもしれないけど

昨日の勉強会直後に、

 

奇跡とは知覚の訂正、と感じた。

 

そうなのか。。

それさえ、わかっていない。

 

わたしはまったく分かっていません。

 

 

聖霊

兄弟が誰なのか教えて欲しい!

 

もっと教えて欲しい!

 

もっと見たい。

 

それだけ!

それしかもう見たくないんだよ。

 

あなたが見せてくれたことを受け入れます。

 

聖霊どうか助けてください。

 

 

信頼してください。

頼ってください。

 

そう感じた。