神を求める私の心だけ
おとといの奇跡講座の話をした彼女から、
昨日職場で声をかけられた。
昨日、
あの話の後、穏やかに仕事することができたよ。
ありがとう。
と。
良かった。
喜んでいた。
嬉しかった。
私も嬉しいよ。
話をさせてもらえてありがとう、と言った。
この一節に目がいった。
私は真に助けとなるためだけにここに居る。
私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る。
何を語り、何をすべきかを案ずる必要はない。
私を遣わした聖霊が私を導くからである。
聖霊が私と共に行くと知っているので、
私はどこであろうと聖霊が望むところに居ることに満足する。
聖霊に癒すことを教えてもらうなら、私は癒されるだろう。
(T-2 V.A.18)
ありがとう。
みんな私を助けてくれている。
私が誰なのかを思い出すことを。
兄弟は先に私を信頼してくれている。
だから兄弟の真の光を信頼する。
それだけを信頼したい。
どこにいても、誰であっても。
疑いや拒絶が大噴出しても。
必ず聖霊が障壁を溶かし去ってくれる。
今まで見せてきてくれたように。
私はそれを信じたい。
勉強会で言われてハッとしたところがある。
愛と助けを求める泣き叫びは、神を求める私の声だ
というところ。
神を求めて祈ることと、
愛と助けを求める泣き叫びは、別物だと思っていた。
神を求めるということに
違いはないのか。。
どうぞお使いくださいとか
私を導いてくださいという神を求める祈りと
憎悪や罪悪感、無価値感といった
愛と助けを求める泣き叫びと変わらないのか。
同じ。
何かひっくり返った気がした。
祈りは綺麗なもので、
愛と助けを求める泣き叫びは闇、と分けていたかったけれど、
どちらも同じ、神を求める心なのか。
「私」の。
私の愛と助けを求める声として受け入れようとしないのはおかしいのか。。
神を求める、私の心しかないんだ。
どこを見ても。。
聖霊以外に。
聖霊や神に祈るのと同じくらいに、
私の愛と助けを求める声を出させてあげて
受け入れていきたい。
そう思い始めた。
聖霊、
私には何も分かりません。
どうか癒しと平安へ導いてください。
兄弟が誰なのか、
私が誰なのか思い出させてください。