(昨日の続き)
無価値感、泣き叫びを出させてあげられなかったのは、
あなたのせいだ。
そう言って相手に怒る。
誰かのせいにする。
私自身が、
泣き叫んでいるなんて認めたくないんだよ!
私自身を除外している、のけものにしているのは、
私だ。
あなたのせいだ!と言って怒る。
それがもう私の泣き叫び。
もう先に泣き叫んでんだよ。
出ちゃってるんだよ。
もう認めちゃいなよ。
隠そうとしても、
無理だよ。
出したくない。
押し込めていたい。
恥ずかしい。
蓋しときたい。
泣き叫びなんて全然認めたくねーんだよ!
兄弟のも私にも受け入れたくない。
私は違う!大丈夫だ。
私は知らない。
しらばっくれたい。
くそ!
負けたくねえ。
でも、
その怒ったまさにそれが、泣き叫びなんだよ。
私が泣き叫びなんだ。
愛が分からなくなっちゃった、怖いよって叫んでいる声。
愛ある想念の聖霊からの
愛と慈しみの目で見てもらいたい。
どのように見ているか教えて欲しい!
愛と助けを求めて絶叫していることを
自分に隠さずに、深いところから浮上させてあげたい。
それを私に赦して、
その声をあるままに正直に認めて、
素直に助けを求めたい。
聖霊、
助けてください。
↑動画より〜
罪悪感を感じた時、
少しでもモヤッと何か感じた時、
自分は間違いなく泣き叫んでいるんだ、ということを認める。
誤りが訂正されるのに、とても重要な鍵なんだ。
愛と助けを求める泣き叫び、絶叫か
愛ある想念。
私の心の中には、どちらかしかないのではなくて、
どちらも常にある。
今自分はどちらと一つなんだろう??
ありがたい、幸せ、なんて美しいんだろうという時
”愛ある想念”と一つ。
次の瞬間、自我のトリックが起動して
やめてくれ!というような
”愛と助けを求める泣き叫び”が浮上する。
その時、
私の愛と助けを求める泣き叫びが、起動したんだ。
助けを求めるということが、大切なんだ。
私は助けが必要なんだということを認識して、
助けを受け入れる。
人のことをあーだこーだ気にし出したり
なんとかしたいとか言い出してモヤっとした時、
その時こそ
その人じゃなくて
「わたし」が、
「わたし」こそが泣き叫んでんだって、内側に戻って認めていこう。
そして聖霊に助けを求めよう。
こうやってまた聖霊に導かれたおかげさまで、
完全スルーして、しらばっくれていた私の泣き叫び、恐れに触れられて、
聖霊に助けを求める、という
正気の決断をする機会を与えてもらえました。
れいさん、ありがとう。
ありがとうございます。