私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

聖霊に従っていく道(11)〜輪島撮影①

<輪島撮影①>

 

こうやって書き出しながら、ようやく思う。

端的に、明確に、率直に、というのは

シェアの仕方ではなく、自分が心で感じていること

そっちのことだったのか。

 

私はどうやら、

本気で、忘れようとしている。

 

書き出すことで、

聖霊にこうやって導いてもらえていることを

思い出せることが本当にありがたい。

 

4月合宿中、

献身といって、形を先に追うのはやめる。

愛と助けを求める懇請を認め、受け入れたい。

と決断し、数日後。

 

急に明日の仕事が休みになり、

仕事から帰宅すると

メッセンジャーに輪島撮影のミーティングzoomが貼れられていた。

 

え?

 

突然目の前に現れた。

 

輪島撮影はもう無くなったと思っていた。

 

 

はい、次これね。

 

聖霊から差し出される。

 

金沢の輪島で自転車を使って撮影する。

その自転車は私とうちの家族の分合わせて3台用意できることは

すでに確認していた。

 

それが決まる前、

れいさんがインスピレーションを受け取って、

私に自転車ある?と聞いてきた。

 

え??

まさかうちの自転車を映画で使うのか?

 

そう思って、本当にびっくりした。

恥ずかしいから本当にやめて欲しい。

だってママチャリだよ?

お洒落なチャリだろう、普通。

 

エス、とんでもないことを考えるな。

 

私の思考には全くないことだった。

 

嫌だと思いつつ、

私が撮影の役に立ってるのよ!みたいな

得意げな思いがあった。

 

そしてそれを隠したかった。

 

けんたさん、れいさん、私の3人が自転車に乗って

白米千枚田の坂から漕いで降りてくるシーンを撮るとか、

そのようなことについては事前に話していた。

 

ホテルについてや

カメラの色々部品の発注など話を決めていく時、

expansionも感じたけれども、

でも面倒だな。嫌だな。と感じていた。

 

エスのガイダンスを感じているか分からなくて、

このファンクションについてどう感じるか聞いて話している時、

けんたさんの後ろから

けんたさんのお父さんがひょこっと顔を出した。

 

エスだ!

 

エスのGOを感じて、

笑ってしまった。

 

こうやって

私にもわかるように導いてくれている。

 

これは本当に、ありがたかった。

 

緊張がほころんだ。

 

 

その後メッセンジャー

次々にみんなで打ち合わせがされていって、

どんどん話が進んでいくのを見ていると、

 

ものすごく怖かった。

 

緊張が増して、

何度も打ち合わせの内容を読むのに、全然頭に入ってこない。

恐ろしくなって、

 

れいさんとホテルを探したりしたけど、

ほとんどれいさんに決めてもらったり、手配してもらったりした。

 

ああ、私ダメだな。

無価値感、

私にはついていけない。できない、無理だ。

私にはガイダンスが分からない。

逃げようとする。

挫折感。

情けなさ。

その中に入りたくねーよ。

私、この中にいても意味ねえよ。必要とされていないじゃん。なんでここにいるんだよ。

とにかく怖い。

 

 

宿を探している時も、

聖霊を信頼することよりも先に、

 

コロナだし無理だろう。と決めつけていたんだと思う。

 

あと3月の中華料理屋に行くまでの時と同じで、

泊まるところはきっと、日本家屋っぽいところなんだと勝手に決めつけていた。

畳で寛げるところ、とか言われていたから。

 

過去や自分の思考に執着している。

 

それでも、

宿を探している時、

ふっと風景が浮かんだ。

 

海。

 

それが、サイン。

インスピレーションだった。

 

れいさんと一緒に探したけど、

ホテルを見つけてくれたのはれいさんだった。

 

宿泊するところを決めることと

この海が、全く結びつかない。

だから、何だこれは?と疑った。

 

でも

そのビジョンそのままを

現地についた時に見ることになった。

 

多分、インスピレーションは来ている。

だけど

つながらないからと決め付けて、

それだとは思わないようにして、通り過ごしたり気づかぬようにしているのは

私だ。

 

私はできない。

大したことない。

それは違うと。

 

 

愛を恐れているから。

 

救いに対して恐れているから。

 

 

聖霊に助けを求めたい。

 

 

前にのり子さんに言われたこと。

 

全然関係なさそうなインスピレーションが浮かんだ時に、

 

Maybe I am wrong,

間違っているかもしれないけれど、、と言って

口にだしてみる。

表現してみる。

やってみる。

 

それが全くその通りにならなくてもいい。

100%却下でも構わない。

100回バット振って、100回空振りでも構わない。

 

間違ってしまうことを恐れていた。

 

今、これを聖霊に思い出させてもらった。

 

 

やっぱり忘れてしまうのではない。

これを口癖のようにいってきた。

 

私はとても恐れている。

愛を思い出すことを。

 

愛を怖いと感じている。

 

それに正直でありたい。

認めよう。

素直であろう。

 

愛を恐れているのに、

恐れてませんよ。

大丈夫です!平気です!といって、

仮面をつけてきた。

 

聖霊に導かれていることを

経験させてくれたのに、

どうも、忘れてしまうんだよね。ということにして。

 すり替えていた。

 

それが仮面だったんだ。

 

 

今、それにようやく気付いた。

  

このどうも忘れちゃうんだよね。

分からないんだよね。は、

 

私が愛を恐れているからなんだ。

 

何度も何度も嫌になる。

これを書き出しただけで何度放り出したくなっただろう。

そしてまたすぐに投げ出したくなる。

 

意図的に

私が聖霊の導きを忘れようとしていることに気付いて、

受け入れて従っていきたい。

 

私が本当は誰なのか

 

を思い出したいから。

 

 

怖い、と思っていることを必死に隠そうとする。

今もそう。

 

ものすごく恥ずかしい。

 

怖いです。と認め、口に出すことが。

 

負けてる。

 

無価値だとバレる。

 

だから、

大丈夫です!と言って、

忘れちゃうんです。ということにしてきた。

 

勝ちたかったのか。

 

忘れてしまうんです。

 

↑これこそが、私の愛と助けを求める声だったのか。

 

4月合宿で

怒りをぶつけ、噴出させた出来事は

このためだったのか。

 

何かに触れた。

 

これを見せまい。

認めまい。と必死だった。

 

あの時、

これがバレるのが恥だから、

反応したんだ。

必死で隠そうとしてたんだ。私。

 

愛が怖い。

愛が無くなったと思っていること。

 

 

そう思ったら、

 

あの時だけでなく

本当に毎瞬忘れようとしているじゃないか。

 

私は

今もずっと愛を恐れているんだ。

 

あの時は

それに触れたんだ。

 

だから今もそうだと、

気づかせてもらえた。

 

そこに素直であるように言われていたのか。

 

なかなかspeak upしたくないな。

 

だけど、

それをやっていきたい。

 

本当に感じていることに、

素直でありたい。

 

素直に聖霊に助けを求めていきたい。

 

聖霊とのつながり、

神とのつながりだけを信頼していきたい。