私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

インタビューから今、気づいたこと

のり子さんやS子ちゃんがインタビューを撮り直す話を聞いてからずっと、

 

思い出すたびに

ああ、私は大失敗だった、、インタビューという

 

敗北感、無価値感、屈辱感が湧き上がって

涙が溢れてしょうがなかった。

 

 

なんとかちゃんと受け答えできるように

もう一度チャンスが与えられないだろうか、とか

 

召命された他のみんなはできたのに、

自分一人だけ失敗で、ボツなんだと思うと

 

映画を見るなんてとてもじゃないけどできないと思った。

 

 

自分だけ失敗、私なんて価値がない、という思いで

情けない、悔しいが溢れかってきて、

 

恥だから思い返すのも苦痛だった。

 

 

形ばかりに目がいっていた。

 

というか、自分のプライドだけで行動していた。

 

 

8月、9月の勉強会で

 

聖霊の恩寵は今、ここにある。

 

J子さんは合わせるだけなんだよ。

 

それがファンクションですと言われてから、

 

 

形よりも、

これだけなんだと言い聞かせながら、

 

合わせることを

開くことに

 

ちょっとの意欲を差し出し始めた。

 

 

 

そうしたら

 

今、目の前に展開されていないから言えるのかもしれないけど、

 

気づいたのは、

 

 

 

インタビューを綺麗に

自分が納得するように撮れれば幸せ、

 

それが神に従ったということなんだ、というのは、

 

 

私が

今ここにある恩寵から目を逸らしているということ。

 

 

今、ここにある。

 

 

それを受け入れようとしない、

 

それは言い訳だったのか。

 

 

あたかも、まっとうな考え、理由だと

自分に信じこませてきた。

 

 

私が光であれないのは、

 

ああだからだ、こうだからだ。

あれが原因だ。

 

リベンジ、どうにかしなくてはならない。

 

ああすればよかった。

 

私は価値がないから。

失敗したから。

 

ああやって行動しなければダメなんだ。

 

取り返さなきゃとか、ああすればきっと満足できるとか。

 

 

実はこれ、

 

「今、ここにある神の恩寵を、開けたくないんだよ!」と

 

 

拒んでいるだけだった。

 

 

 

だって、

救済、恩寵、

 

今ここにあるんだよ。

 

開けるだけなんだよ。と言われたら、

 

 

自分が、開けたくないだけだと認めるしかない。

 

 

聖霊からも、

「私は離れない。」とはっきりと言われた。

 

 

ということは、

 

自分が合わせたくないだけだ。

 

 

これをブログに書くのは抵抗があった。

 

撮影に差し支えないように、終わったら書こうとか。

 

 

でも本当は、

 

負けを認めたくなかった。

 

 

私には、できませんでした、と。

 

 

「それが、必要です。」

 

 

そう言われている感じがする。

 

 

 

普段の生活でも、

 

まるで自分を罠にはめることが展開しているように見えている中、

 

罪悪感と攻撃の知覚にまみれた向こう側から、

 

 

そのように演じているように見える

 

すべての兄弟から、

 

寄ってたかって、それだけを教えてくれているんだ。

 

 

「J子!

 

与えられている恩寵に、

 

今、開くだけなんだよ!」って。

 

 

 

できませんでした。

 

降参。

 

 

したくないので、すぐ忘れる。

 

 

忘れないようにしたい。

 

 

 

兄弟からのこの声に

聞く耳を持っていたい。