私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

7月献身合宿に参加して②

 

2日目も同じく、別の場所から草刈りをする。

 

かなり広い範囲のはずなのに、

やはり短時間で終わった。

 

 

上がってくる思考を捧げる。

 

やりながら、浮かぶ。

 

arrogance

 

傲慢

 

神へ捧げながらやらせていただいていながらも、

罪悪感やわたしがやっている。わたしはいるという思考が止まらなかった。

 

それを何とかしようとすること自体、

わたし、が存在して

やっていると思っていること自体、

 

傲慢。

 

 

 

皆耳を澄ませるので、

自然と沈黙の時間が与えられる。

 

シェアはするが、

雑談、おしゃべりはほとんどなかった。

 

 

料理も買い物も、

全て

皆で祈り、

兄弟に尋ねながら、

聖霊のインスピレーションから動く。

 

全て、

一日中、聖霊に尋ねて

掃除ひとつ、

聖霊から動いていく。

 

神の心に合わせる。

 

 

しかしほとんど

 

自分が、自分が、

 

自分が正しいに違いない、

 

わたしは正しい。

 

わたしはこう言いたい。

 

わたしは言いたい、言いたい。

 

兄弟二人が話しているのを前に、

わたしの存在を無視するな。

 

わたしの時間と空間を奪うな。

 

聞きたくない。

 

分かっている兄弟への嫉妬。

 

 

 

映画を見る準備をしていた時、

過去の経験から、雨戸を閉めようとした。

 

しかし、カーテンで大丈夫という感じがしていた。

 

にも関わらず、

いや、これが正しいに違いないと言って、

雨戸を閉めようとしていた。

 

 

網戸が外れてしまったりして、やはり兄弟との一致がなく、

うまくいかない。

 

ガイダンスではなかったとわかるも、

 

自我は、

それでも俺のやり方が正しいと言い張り、

やり通そうとする動きが見えた。

 

4分裂。

 

 

stop

立ち止まりなさい。

 

 

間違っていたことを認める。

 

恥を感じる。

 

悔しさ。

 

 

それを捧げる。

 

 

目的は、全体のためであり、

神の為に、自分は一切持っていたくない。

 

 

わたしの正しさをやり通そうとする動きに気づいて、

辞めて、

 

神にイエスに尋ね直す。

 

 

雨戸について

後になって

正直に、ガイダンスとは違っていたと思うと打ち明ける。

 

 

あれは失敗だった、と自我はいう。

行為者としてやろうとする。

 

わたしは、いる。

 

聖霊からは

失敗はない。と教えていただく。

 

捧げる。

 

 

さらすと、兄弟に、裁かれる。という思いがある。

 

それよりも先に、自分が神を攻撃したこと信じていて

自分を赦せず、

裁いているからだ。

 

 

晒しても、大丈夫なんだ。

 

それは起こっていないから。

 

でも聖霊に晒さないと、

起こっていないことがわからない。

 

 

やってしまったと思っていること、

 

兄弟の前に、

聖霊の前に、

思っていること、

思考を手放したいという目的から

 

さらすことを心がけていきたい。

 

 

 

恋愛についての

兄弟のシェアを聞くことが多かった。

 

 

それもまた、

聖霊と共にいることのレッスンでもあったと思う。

 

 

聞く、尋ねる、とは

人の耳で、ではない。

 

響きを感じていくことなのだ、と

今更ながら気づく。

 

 

正直、

聞いている間、

聖霊と一致している時もありつつ、

 

自分は被害者だという思考が溢れかえっている時もあった。

 

 

聞かされている、という被害者意識。

 

でも

いざ語るかというと、

自分を晒さない。

 

 

自分からシェアすることもあったが、

兄弟への信頼が欠けているのと、

 

誰かが黙っている時、

 

わたしはあまり喋らないので、

喋らなければならない、というプレッシャーを

無意識にかけている。

 

 

何について話したら良いかもわからない。

何がトリガーなのかもわからない。

 

しかも、

すぐ、忘れる。

 

隠蔽しているとも気づいていない。

わからない。

 

 

わからない。

 

聖霊に導いていただくしかない。

助けてもらうしかない。

 

 

聞いて、受け入れたい。

という思いもある。

 

 

他の兄弟も受け取っていたように、

聖霊から、受け入れなさい。と言われていた。

 

 

ふと話をしていて思い出したのは、

ルールズという恋愛を結婚につなげていくための

女性の対応の規則本を

 

元旦那さんと結婚する前に読み込んでいた。

 

これ通りに行動すれば、

わたしは幸せな結婚ができて、

幸せでいられるに違いない。と本気で思いこみ、

 

実践していた。

 

 

男性は狩猟本能があり

女性は、男性から求められるからこそ、

幸せでいられる。

 

その逆をするのは、

つまり女性から男性を追いかけるのは不幸の元。

 

会いたい、と男性に思わせるそぶりを見せること、

 

会ってすぐsexしてはいけない。

 

女性らしい服装と振る舞いを心がける。

 

電話は思わせぶりにこちらから先にきる。

 

相手に期待させる為。とか。

 

そんな内容だったと思う。

 

 

それで

本当に元旦那さんと結婚することになり、

 

大切にしてくれた。

 

でも、

本当に幸せだったか、というと、

 

罪悪感と欠乏を感じていただけだった。

 

全ての動機が、恐れからだったと今ならわかる。

 

神から身を守る為。

 

 

分離していたい為。

 

 

周りを自分が

これが幸せと信じる状況や

お気に入りで固めることができたと信じていても、

虚しさを感じていた。

 

今は、その本がコースに変わった。

 

 

今も、まだルールズを信じていると兄弟に指摘された時、

「私は違う!」と大きな声が出た。

 

無意識で、信じていること、期待していることを証明したようなものだった。

 

そんなはずはない、

もう、恋愛には興味ないし、

歳も歳だ。

衰えも認めた。

 

それどころではなくなったし、

 

第一、聖霊から取り消されてしまって、

ロディックで終わってしまったはずだ。

 

なぜ、抵抗が現れるのか?

 

それは期待しているからだ。

 

まだ、握っている信念があるからだ。

 

合宿初日の朝、

頬と頬をくっつけイエスに温かいハグされて幸せ、という夢を見た。

 

わーい!幸せ〜。。

 

その後、すぐ

エスに「コーヒー入れて」と言われて、

 

え〜ずっとこうしていたいのにー、

従うよう指示されたことに腹を立てた。という夢だった。

 

 

そうして、兄弟の恋愛の話を聞いていると、

この夢のことをふっと思い出して

エスは言った。

 

 

「同じことです。」

 

 

そうなのか。。

 

 

同じ願望があると認めたくなかった。

 

 

分離していたい欲望。

 

欠乏。

 

 

聖霊からは

あなたは女なのですか?

 

誰なのですか?

 

と問いかけられる。

 

 

このルールズを真剣に信じていたのか、と

その時笑ってしまった。

 

 

あなたはスピリットです。

 

インスピレーションに従うことの方が、本当は自然なのだと思った。

 

 

しかし

 

彼女と分離したままでいたい、

彼女と私は違う。

同じ欲望があるなんて!

私は神へ向かうものなのよ。

違うのよ。

 

と合宿中、内側が受け入れません、という姿勢だったと思う。

 

しかし、

バリバリ同じ思考、信念を信じています。

 

負けを認める。

 

 

思考や想念、欲望を素直に見せてくれる兄弟がありがたいと今、思う。

 

神を

愛を求める私自身の懇請。

 

受け入れていきます。

 

 

 

もう一本の映画、ARGOを観る。

 

7月のlivingmiraclesのオンラインリトリートでも観たものだ。

 

この映画を見るのは2回目だったが、

 

作戦中止と言われたにも関わらず、

先どうなるか全くわからない。

電話で人質を救出する決断をするところ。

 

 

ここだけ。

 

 

聖霊にコミットメントする。

 

それが先。

 

決断、

 

それが先。

 

 

これからどうなるのか、

全く確証がない。

 

恐ろしい。

 

それでも、

従う。

 

 

オンラインリトリートでデイビットさんが言っていた。

「次はない。」

 

 

 

のり子さんも、

インスピレーションの点と点を兄弟でつなぎ合わせていくと、天国の門へつながっていくものなのだ、と

目の前で証明してくれて、説明してくれた。

 

私は知っている、

過去から学んだことは一切、役に立たない。

忘れてしまいなさい。

 

 

 

本当に、歩むことは、

震えるよ。と

兄弟は話をしていた。

 

 

その時、

私にはまだわからない、と感じていた。

 

 

このブログに書く内容にも

きっとそれが表れているのだろう。

 

歩んでいないからだ。

 

 

 

合宿に参加後の今、

 

聖霊と共にいること、

 

立ち止まり、

聖霊に尋ね、従うという姿勢

 

レーニングはそのまま続いている。

 

 

 

ブログに書くこと、伝えることは、

自分自身に与え受け取ることだと、のり子聖霊に教えていただく。

 

 

 

兄弟、ありがとうございます。

 

聖霊

神様、ありがとうございます。