私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

ラファエルのインタビューの記事を見直してみて

先日、某所で愛を感じ、

恐れが上がり、受け入れる決断をすることを避けるということがあった時、

ラファエルのインタビューのことを思い出した。

 

程度が違うけれど、あの時のように、

今まではぐらかしていたことに直面させてもらった体験だったな、と。

 

 

インタビューの記事を見直してごらん。

 

 

そうインスピレーションがあった時、

 

分かってはいたけれど、

あのインタビューは大失敗だった!

やってしまったことは、大大大失敗だった!!とずっと思い続けていたことに気づく。

 

あれは恥だ。大失敗だったのだから。

見てはいけない。忘れた方がいい。

 

そう信じていた。

 

 

同時に、

ああ、あの出来事、、ということにして

ものすごく特別にしておきたかったことが見えた。

 

あれが、あれが!

あのために私はひどい目にあった

 

または

他の人にはない素晴らしい体験をしたのよ!

だから私は特別なのよ!と言い続け、

 

そうやって分離を維持していた。

 

それが自分で自分にバレた時、

ものすごくがっかりして、怒りが上がった。

 

 隠れるところがなくなるじゃないか。

 

そういえば怒りや恐れのシェアは

みんな勉強会やリトリートでやってるじゃないか、、、!

同じことなんだ

 

なんてことだ、、!

私にだけあった特別なことだと思っていたかったのに、

特別でもなんでもなかったなんて。。

 

 

インタビューを受けた後に感じたままを、ブログに書いておいたのだが、

自分ではUPしたつもりだったのだけど、下書きに保存したままだった。

 

 

何回か見直してみる。

 

 

最初はやはり、抵抗があった。

 

虐げられたとか、大失敗、汚点だと信じてきた。

 

 

最初にラファエルに言われたことは、

 

「これはインタビューではありません。ヒーリングとして捉えてください。

これを載せないで欲しければ、遠慮なくそう言ってください。

思っていること、感じていること、正直に言ってください。

答えるとき、すぐ答えたくなければ5分くらい待ってから発言してもかまわないです。」

 だった。

 

 

ヒーリングだったんだよ。

 

 

そして、思ったのは、

 

実際、この記事に書いたような

私が内側で感じていること、思っていることは

インタビュアーのラファエルに何一つ打ち明けていなかったことだった。

 

 

「思っていること、感じていること、正直に言ってください。」

  

 

そのように言われていた。

 

だけど、

思っていることの一つも彼に、正直に言えてなかった。。

 

 

映画を作るためなのだから、

正直に腹を割って言うなんて、考え自体が全くなく、

 

ただ、インタビューに答える演者として

表面的、体裁を整える感じで、

 

義務的に、事務的に答えていた。

 

取り繕おうとしていた。

 

 

もっと言うと、

「仮面を着けていた」。

  

 

拷問されているように感じるのでやめてほしい、と思っていますとか、

罪悪感を感じているとか、

あなたに責められているように感じていますとか、

とてもとても恥だと思っているので、答えられないんですとか、、

やめてよ!とか

 

本当にこのブログでは正直に書き出すくせに、

その時は、その場では、全く一つも言えてなかったじゃないか。。

本当の本当に思っていることを正直に。。

 

 

ここだよ。

 

 

そうだ。

 

 

 

いかに聖霊にオープンに、

正直にあろうとしていないか。

 

いかに隠そうとしているか、

 

明るみに出さずにいることで、温存し、

維持しようとしているか。

 

 

自分のものとして

持っていようとしていないだろうか??

 

 

デイビットさんの動画にあるように、

毒を海に流し、少しずつ罪悪感を薄めてすすり飲んで、

分離を維持しようとしているか。

  

 

あの出来事といって掴み、

 

隠しておきたいという動きをしていないだろうか。

 

 

明るみに出したくないという思いはないだろうか?

 

 

聖霊に、兄弟に、オープンにしたくない思い、考え。

 

 

蓋をしようとしてる。

 

 

 

はい。

全く特別ではありません。と感じると屈辱的で猛烈な怒りが上がったけど、

 

あきらめると

安心して、リラックスが戻ってくる。 

 

 

降参。

 

 

ありがとう。

 

 

この出来事に対して、

良い感想を、とか、良い気づきがありました!と言おうというのも

 

全く要らない。

 

それは仮面だから。

 

 

 

何も隠さず、

ごまかさずに、立っているだけ。

 

 

恐ろしい。

恥。怖い。

  

 

聖霊、一緒に見てください。

 

 

奇跡講座ワークブック

レッスン5

私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。

 

 

そしてこのインタビューで感じたことをブログに載せるかどうかについて、

ずっと葛藤していた。

 

感情の直接的な表現が多いし、大丈夫だろうか?

果たして聖霊の指示なのだろうか?自我の手柄にしたい衝動なのかもしれない。

 

ふとこちらの動画を観ました↓

 

youtube動画

しあわせの選び方【フランセス・シュー】奇跡講座/奇跡のコース/ACIM

www.youtube.com

16:52〜

ですが、これにはとてもシンプルな解決方法があります。

ひとつひとつの意思決定に、そしてそこにおける考え方に立ち戻って

その考えを「聖霊が望むもの」に合わせるのです

彼が望むものは、あなたの望むもの

それはあなたの幸せです

そして、全体の幸せなのです

 

19:23〜

手段はゴールそのものなのです

あなたは手段を受け入れた瞬間にゴールに到達します

幸せは瞬時に起こります

 

19:55〜

「私はただ幸せを望んでいます」

「神の平安を望んでいます」

「でも、そのために与えられていることはしたくないのです」

 

。。。

この動画に、

今必要な全ての答えがあった。

 

 

私の望みは、

聖霊、イエスと共に心、想いを一つにして、

全体のために在ることです。

 

リトリートに参加するかどうかとか、聖霊の声が聞こえない、

聖霊の指示なのか、自我なのかといつも葛藤ばかりしている。

 

聖霊が望むものに合わせよう。

 

平安と幸せを感じる。

 

 

そのために与えられたことはやりたくないと言っている。

 

 

繰り返し、繰り返し、

一つずつ、訓練していくものなんですね。

 

  

何が全体のために役に立つかなんて、

私に分かるはずがない。

 

 

私には何もわかりません。

 

 

私は何も知らない、分からない。

 

 

私のほうが知っている。と思っていないだろうか。

 

隠したり、ごまかそうとしていないだろうか?

 

 

神の平安を望んでいます。

だから、与えられたことをしていきます。

 

そのように意志したい。

 

何度も

転びながらだけれども。

 

 

ありがとうございます。