私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

カメラを撮るファンクションで気づいたこと

ブログを書くたびに、

リトリート後、さらに

ダメダメさが増している感じがしている。

 

書く内容、

気づきの浅さ。

 

ファンクションをやりたくない。

 

辞めようとしたら、

やるといいよ

という感じがした。

 

なので

それをやる機会は

残してある。

 

でも

それをやるには、

自分にインスピレーションがないとやりたくない。

 

だって、他の兄弟は、

具体的にしっかり受け取れているのに、

 

前から自分にはそれができていないから。

 

分からない。

 

リトリート以前も、リトリート中も、

全部それだった。

 

リトリートでは、

 

その答えをもらっていた。

 

 

 

思い出すのは、

カメラを撮らせてもらったこと。

 

リトリートの最終日の前の日に、

スタッフの仲間から、

カースティンからみんなのオフショット写真を撮るファンクションがあり、

それをやるといい感じが来ている中の一人として声をかけてもらった。

 

カメラをうまく撮れる人は他にもいるから、と言って

その人にやってもらえばいいと思うと話した。

 

自我としてはやりたくなかった。

 

自分の撮った写真は、

自分の反映で、

目を閉じてしまった写真とか、ぶれた写真が多かったので、

 

うまくいくはずがない。

 

写真は撮られるのも、撮るのも、苦手だ。

 

また、

あの人よりいい写真を撮りたい、と

競争心もあった。

 

でもやりたくなかった。

 

どうしたらいいか、祈る。

 

 

それでも分からなかった。

 

仲間にやるかどうか返事をする時になって、

怖いけど内側に聞いてみた。

 

すると、

 

やると癒しを受け取るよ。という声が

内側から聞こえた。

 

私がやります。と。

 

決して、やれ。とは言わなかった。

 

 

そして、

仲間に向かって、

 

「今、やると癒しを受け取るよ。という声が聞こえた。

 

この声を受け取れたことを

 

聖霊の声を受け取れたことを、信じてみようと思う。

 

言っていることを信じてみようと思う。」

 

とそのままを話した。

 

yes、と。

 

 

自分がみんなの写真を撮ることを想像してみた。

 

 

聖霊がこのように、私たちをみているのか。

 

愛と慈愛に満ちた眼差しを教えてもらった感じがして、

 

リトリート中、

デイビットさんに手を振る兄弟の姿を見ては泣き、

 

みんなでハグするところを撮ることをイメージしただけで、

 

愛する眼差しを感じさせてもらって、

 

まだ実際にカメラで撮っていないのに、

すでに癒しを受け取っていた。

 

しばらくして、

兄弟にこのことを話した。

 

 

そうか、

 

「写真なんて、どうでもよかったんだ。

 

うまく撮れるか撮れないかなんて、どうでもよかったんだ。

 

ただ、Yes

と言うだけだったんだ。」

 

 

と言う気づきが自分にあると同時に、

話した。

 

「そうなんだよ!」と力強く言ってくれた。

 

その後、

二人の兄弟に見守られながら、

号泣していた。

 

 

信頼。

 

それが必要だったんだ。

 

 

信頼を差し出す。

 

今も思い出しては泣く。

 

 

 

その後、

実際、カメラをみんなが食事をしている姿とか、

オフショットを取っている間、

 

泣いていた。

 

自我は、

なんでこんなことしなくちゃなんないんだよー!と言って、

 

愛を必死で拒もうとしていた。

 

 

でも、

 

愛されていた。

 

それを感じていた。

 

 

カメラ越しに見る兄弟が、

あまりにも美しく、眩しく、

 

涙で、見ていられなかった。

 

このように、見ているのか。

愛しているのか。

エスは。

 

 

自分が見ている世界となんと違うことだろう。

 

あまりにも違いすぎる。

 

 

愛の眼差し、

愛ある想念。

 

 

このように、

エスと同じように、みたい。

 

そう思った。

 

 

 

 

 

 

そして、

このように見ていることを教えてくれて、

 

知る機会を与えてくれて、

本当にありがたいと思って、泣いていた。

 

 

写真を撮り終えると、

できた写真に対するジャッジがすごかった。

 

なんだこれ。

 

感じたものと全然違うじゃないか。

 

相手がかまえた写真とか、

ダメダメ、

ボツ写真ばかり!

 

そう自我は言っていたので、

 

取りまとめている兄弟に写真を送信する時、

ひるんだ。

 

もっとよいショットが撮れればよかったのに。

 

送信して、

カースティンさんがUPした写真の中に、

自分の写真があった。

 

自我は、手柄だと言っていた。

 

ボツじゃなかったのか。

 

 

結果は、どうでもよいんだよ。

 

 

そう言われた感じがした。

 

 

 

私にはよく分からないけれど、

 

 

愛されているんだ。

 

 

ただ、愛されている。

 

 

それだけを

教えてくれたリトリートだったと思う。

 

 

 

またダメダメさを晒すのが嫌だな。

 

 

しかも、自分から。

 

 

そう言っているけれど、

 

 

奇跡はこれだけではなかったけれど、

 

この時体験させてもらったことを、

なんども思い出す必要があるので、

 

今、思い出す必要があったので、

 

聖霊にこれを書かせてもらいました。

 

 

ありがとうございます。

 

 

信頼。