正当化
決断した、といいながら、
その後はずっと焦り、不安と恐れにまみれていた。
今何を信じているかを、見ていかなければならない。
分かっていたけど、見たくなかった。
ごまかして、翻訳もちょっとやってみたりした。
しかし、
自我で猛烈に不安になっていた。
どのような信念があるのか、
聖霊と一緒にみていかなければならないのは分かっていたけど、
恐れを何とかしようと、行動や、表面的なことで取り除こうとしていた。
無理だ。
やっと、聖霊に助けてください。とお願いして、見ていくことにした。
自由に、リトリートに参加したり、Messengerしたりするのを、旦那さんはなぜ認めてくれないのだろう?と思っていた。
本当は、参加しちゃだめだと思っているのは私の方だった。
私は、私にやりたいことをする自由を絶対赦さないからね!と
自分を磔にしてる。
旦那さんに言わせていたこと、
心の姿勢を彼がいることにして、そのせいにしていた。
だから、
聖霊がこういったに違いないといって、
彼にあてつけていた。
一番の執着は、
「献身」という形への捉われだった。
形が必要なんだよ。
手柄が欲しんだよ。
それをやったりすれば、献身していますアピールができる。
セミナー、勉強会に参加する、肉体の行動こそが献身だ。
ものすごい執着で、
今まで、ずっと勉強会、合宿の参加も、その執着があったのは気づいていたけど、
手を離す気がまったくなかった。
今回のカースティンさんのリトリートに参加しないのは負けだ。
と思っていた。
だから、
旦那さんとの生活、離婚してでも、参加することこそが、献身だ!と
本気で思っていて、
聖霊がそう言った。ということにしていたと思う。
それを勉強会で話したことで、
従っている、英雄気取り。かっこつけている。(と自我は言う)
私は正しい、アピール。
しかし、猛烈不安。怖い。このまま別れても、命綱が切れたような感じ。
自我だから当然だ。
イエスと一緒に歩めていない。
情けない。
でも、それを自分の選択だとは認めたくなかった。
抵抗があったけど、考えるようにした。
本当に、
リトリートへの参加、という献身の形を、放棄してみよう。
わたしの、献身の在り方をやめて、
イエスのレッスンに委ねてみる。
いやだめだ!やめるなんて考えられない。
参加してもいいよね?の繰り返し。
凄まじい執着。しがみつき。
参加できないと恥だ、とか自分が脱落者だと勝手に決め込んでいる。
ディビットさんの本の
覚醒へのレッスンも、併せて読み始めた。
実は今まで、さらっとしか読んだことがなかった。
今、ようやく読めるようになり、
内容が染みこむようになってきた。
P173
あなたが、ただ意識を内側に向かわせ、心を観察し、信念や思いを見つめようとするなら、まず最初に世俗的な計画や活動へのしつこい執着を手放す意志が求められます。
活動へのしつこい執着。
本当にしつこい。耳が痛い。
しばらく見ていくと、
神への献身って、今できるのではないか?
なのに、なんで○○しないと献身できないと思ってるのだろう?
と思い始めた。
今、平安で、自由でいることを、
わたしはわたしに全然赦していないんだ。
今、わたしが神の子でいることを、自分が赦していない。
私に対して、
今あなたは自由でいてはいけません。
あなたは光輝いてはいけません。
本当にやりたいことを、やってはいけません。
幸せでいてはいけません。
罪があるから。
そんなんじゃだめなんだ、といってギチギチに鎖で自分を縛っている。
行動で目に見える形でやるのが献身だという考えが、
わたしにとって、当たり前過ぎだった。
手放したくないので、
その考えを疑うということすらしたくなかった。
「神への献身」を分離したままでいるための道具にしていた。
これをやっている私でいられるから。
形や、行動という、行動のすべては意味なく、関係なかったのか。
決断した、なんて言ってたけど、
まったく決断できていなかった。
本当の意味での覚悟ができていない。
昔から、わたしには破壊衝動があった。
この世界以前のことなんだろうけど、
破壊すれば先が開ける、とかもう破壊するしかない。とか。
きっとこれは聖霊の導きだ、と信じて疑わない。
それを
旦那さんとのことを聖霊のせいにまでして、押し付け、正当化していたんだ。
先に、彼を除外、邪魔な存在だと言っていたのは、
わたしの方だった。
彼との関係を断てば、自由でいられる、自由になれると思っていた。
中央アート出版社
奇跡講座テキストP203 T8.III.4
あなたは、彼を見る通りに自分自身を見る。
彼を扱う通りに、自分自身を扱う。
彼について考える通りに自分自身について考える。
このことを決して忘れてはならない。
テキストP584 T21.II.2
私が見ているものについての責任は、私自身にある。
私が経験する感情を選択するのは私自身であり、私が達成したいゴールを決めるのも私自身である。
そして私の身に起こるかに見えるすべては、私が求めて、求めた通りに受け取るものである。
↑覚醒へのレッスンに引用されていた箇所
ようやく、
離婚だ、とか、認めてくれない旦那さん像は、
聖霊がわたしに与えたことではなく、
自分が望んだことだった。と認めた。
神との分離を望んだのは、わたしのほうだった。
もう自由でいていいんだよ。
やりたいことは、やっていいんだよ。
今、幸せでいていいんだよ、って自分に言ってあげたい。
でも、
自分で気づかないぐらい、物凄く赦せないらしい。
書きながら、抵抗がある。怖い。
他の誰でもなく
一番、自分が自分を赦せないんだ。。
聖霊、どうか助けてください。
自分自身を赦せるように、お助けください。
奇跡講座P585第21章II.4
一つの世界を作り出せるほどに強力なものは、その世界を手放すこともでき、
自分が間違っていたと認めようとする意欲があるなら、訂正を受け入れることもできるということを、あなたは知覚しなければならない。
幸い、
旦那さんはわたしに、今すぐでなくてもいいんじゃない?と言ってくれている。
これだけは、握っていたかったという
こうに違いない、正しい、献身だと思ってきた信念が
まだまだあると思う。
遅いかもしれないけど、
明け渡していこう。
それを信じることで、自分を苦しめたかった。
今、本当の献身が何なのか、教えてください、と祈っている。
知識ではなく、
イエス様、あなたの答えをどうか心で受け止められますように。。