私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

愛と助けを求める懇請だった

数年前に

ある施設で、私がやってしまったことの一つを勉強会で話した。

 

しかも、一度や二度どころではない。

 

ずっと、罪を感じていた。

 

もちろんこの世界的には、罰せられるに値する行為だ。

 

怖くて、ごまかしてきた。

 

そのような職種で働いていたこと自体が、最大の恥だと思っているので、

忘れたくて仕方なかった。

 

 

克服したかった。

 

わたしの心が良くなるために。

人びとに施す。そうすればきっとこの心は良くなるんだ!と最初は信じていた。

 

一生懸命、一生懸命、いい人として、優しく接しようとしていた。

 

わたし、こんなに人に尽くせることができるんだ!

初めはそう喜んでいた。

 

ところが、、

逆にどんどん、あの子供のころの憎悪、怒り、が何倍にも膨れ上がっていった。

 

そんな自分と、

自分をそんなふう怒らせる周りの人々に対して、

愛なんてまったく感じず、だんだんと苦しみと憎しみだけをぶつけるようになっていった。

 

あなたたちのせいなんだ。そう思っていた。

 

どんどん、悪くなる腰、膝。寝不足。

お湯と薬品を使って手を洗うので手の皮が剥がれてボロボロ。

夜はかゆくてほとんど眠れない。

 

自作自演だと今は分かるけど、

精神的にも身体的にもボロボロだった。

 

完全に外側にだけ原因を見ていた。

 

こころの痛みを見ないようにしていた。

 

 

神の小屋のマックと同じじゃん、わたし。。

 

 

状況や人にばかり焦点をあてていた。

 

すべてが罪、罪、罪! 罪だと思っていた。

 

 

ああ、叫んでいた。

今も叫んでいる。

 

わたしの愛と助けを求める懇請だった。

 

ああ、罪じゃなかったんだ。

 

わたし、助けを求めていたんだ。。

 

「おれはこんなにつらいんだよーーー!!うあーーー!!」

 

この声に背を向けていたんだ。

 

 

ただ、それを見つめ続けることで、

今も平安にあることが分かる。

 

教えてもらったのに、

全く本気じゃなかった。

 

 

今、すべてのすべてが、

ここですべきことに集約されているという感じがする。

 

わたしは、そのためにここにいる。

そのために、生まれてきて、ここにいる。

 

まるで、

ブログで遺書を書いているようだ。

 

 

ギロチンだと、

個のわたしという首を、執着を捨てる=身体(対象)から切り離して、

わたしは誰なのか?たどっていく感じ

=一歩下がったままで居続ける

 

わたしが誰か?完全に思い出すまで。

 

 

こうやってみなさんで、

ゲロとか闇だと恥だとか悪だとか、、

そう思っていたものを兄弟と吐き出すことで、

 

 

それは罪ではなかったんだよ。

 

愛と助けを求める懇請だったんだ、と見ることが

 

一体どれだけの助けになっていることだろう!

 

 

なんと有難いことだろう。。

 

  

神様、有難うございます。