私は知覚に問題があります

なので感じていることを、どうか聖霊あなたに打ち明けさせてください。

聖霊からの励ましを自分自身に与えてあげる

6/13勉強会で教えてもらったことと感じたこと。

 

私は努力しないとダメだ、とか要らないよ。

神はお前もっと頑張れとは言わない。

 

なぜなら神は

今この瞬間、

私に幸せであってほしい、喜んでいて欲しい、

愛を受け取って欲しいと思っているから。

 

どうか受け取って欲しい。と。

 

だから努力なんて必要ないんだよ。

 

頑張らなきゃいけないなんて、思う必要はないんだ。

 

それは神の意志じゃないから。

 

確かに、

聖霊からありがとうって言われてきた。

 

だけど、だけど、、、

 

それを

私が私自身に

「ありがとう。

ここまで歩んでくれてありがとう」って、

 

歩んでいるわたしに言ってこなかったよ。。

 

聖霊からの励ましが聞こえた時、

”よくやってるね。ありがとう。

ともに歩んでくれてありがとう。”って、、

 

それを私に言ってこなかった。。

 

「イエス聖霊はそう言うけど、私は私に言わないからね!」

本当にずっとこれやっていた。

 

むしろ、私とはこれなんです。というくらいに。

 

私は私を愛さない。赦さない。励ますなんて!

私が私に愛を出し惜しんできた。

 

それが神の意志に背いていることだったとは。。!

 

衝撃だった。

 

神を一番にしたい

心のままになさしめたまえ

と祈っているのに、

 

神の意志に背いていたなんて。。

 

自分に厳しくすること、

それが正しいに決まっている、

間違ってないって思ってたけど、

 

神は愛なのに、

 

私たちをただ

愛し、慈しみ、喜んでいるのに、

 

神はそういうものではない、

愛ではないって思っていた。

 

 

聖霊が私に与えるように

私が私に慈しみを与えていきたい。

 

神になさしめていただく

心のままに

とはそういうことだったのか。。

 

あの時、

Davidは胸に手を当てて私を抱きしめて、

目を見てうん、うん、というようにうなづいて話を聞いてくれていたのを

思い出す。

 

honorしてくれていた。

 

他の誰かから愛がやってくるのを待つのではなく

それをどこかや未来に求めるのではなく、

 

Davidが私を一なる子の自分自身として見てくれていたように、

 

今、私が私自身を慈しみ、励まし、愛していくんだ。

感謝していくんだ。

 

今、この瞬間に神が与えてくださっているままに、

 

私自身を

よくここまで来てくれました、よくやってるね、愛しています。ありがとう。

そう励まして、歓迎するんだ。

 

そうしていくんだ。

 

ありがとう。

 

また心から響いてきた。

 

さあ、私自身に言おう。

私自身に与えてあげよう!

 

そのようにしたいと思うわたし、

ありがとう。

 

 

自分に愛を与える

mokumokuchang.hatenablog.com

この6/13勉強会後に感じていたのは、

 

自己嫌悪、自分への憎しみ、自分をギロチンに賭けまくりたい、

自分をとにかく殺したい、

自分にはそんな資格ない。

みなさん、すみませんでした。

 

そんな思いが湧き上がり、

さっきの課題を後回しにしていた。

 

自分が一番ダメじゃん。

私を赦さない。

できてない。

 

この日の勉強会で、

4月にターミナルだった方の状況の続きを話した。

 

ここで感じたのは、

のり子さんは加害者を加害者として見れなくて、

聖霊の見方でその状況を見れたけど、私にはできなかった。

情けない。

そう思っていたから、話したくなかった。

せっかくの聖霊からチャンスを与えてもらったくせに、

聖霊の見方で見れなかったダメな私を晒したくなかった。

 

それでもそのことを話したが、話して良かったか分からない。

 

自分自身に対するキモさ。

 

他の誰でもない。

「自分自身」が、

聖霊の見方で見て欲しい!と強く望み、決断した結果、

ガイダンスを受け取り、従った結果、そこにいる。

 

だから、その時感じたことを自分自身に正直になって打ち明ける、責任がある。

他人のためじゃない。

そう望んだ自分自身に誠実でありたい。

 

本当の私を知りたいと望んだ自分自身の想いに、不誠実でありたくない。

 

同じ見方でできなかったことが問題ではなく、

そういうふうに感じたんだと

葬り去ろうとしないで、私に隠さずに正直である責任がある。

 

私自身が、そう望んだから。

 

達成感どころか、ダメダメで晒したくない、恥かきたくない思い。自己憎悪。

 

聖霊が私に言っている、私は愛だという自覚が完全に復活されたい」

「私が誰だか思い出したい」

「狂っているから正気に戻りたい」

「目覚めたい」

という本当の望みを願望したその想いや自分自身に、

隠さず晒していきたい。

私が間違っていたことを望むから。 

 

なぜだか隠し通すことに利得があると思っている。

私自身に。

 

自分を慈しむ。励ます。

 

よくやってるのかな。。全然やってないじゃん。私。

 

『自分を慈しまない、自分に愛を与えないのは、神を一番にしていないということ』

と言うのを聞いて、すごく驚いた。

 

神を一番にしたいって思ってたのに、してなかったのか!

 

初めて聞いたような感じ。

私は何年も同じことをずっと言われていたのか。

 

何もすることなくなるじゃん。。

 

深呼吸して、、ってよくカースティンやのり子さんが言ってるけど、

そうだなって思った。

 

一番したくなかったことだ。

自分で言っていてかなり気持ち悪いけど、

 

神を一番にしたいので、

 

私自身が、

自分自身を慈しもう。励まそう。

自分自身に愛を与えよう。優しくしよう。

 

カースティンが言っていた、

赤ちゃんを優しく抱いているように。

 

神が私にそうしているのと同じように。

 

 

 

6/13勉強会より:愛と慈しみを自分自身に与える

6/13の勉強会でのり子さんから言われた課題。

教えていただいたことをここへ書いてみます。

 

勉強会後に主にさらっとメモ書きしたもの。

 

。。。。

神は順子だけを除いて愛を与えたりはしない。

順子にも愛と慈しみを与える。

順子にも愛と慈しみを与えることが、神の意志。

それをしないということは、神の意志に背いている。

 

順子に愛と慈しみを与えないということは神の意志ではない、

つまり神を一番にしていない、ということ。

 

よくやってるね。

愛しているよ。

よくここまで頑張ってきたね。と

自分で自分を励ます。

 

順子だけを除いて、

順子にもっと頑張んなさい。と言い続けることは神はしない。

 

順子だけに愛を与えず、慈悲を与えないで、

他の神の子たちに与えるということはありえない。

 

ここだけ除外するなど、ありえない。

いっぱい与えたいと思っている。

 

カースティンやデイヴィットが、手をクロスして胸に当てるのは

相手と自分自身をハグしているから。

 

それがカースティンリトリートで教えたかったこと。

あなたのためのリトリートです、と言われた。

それを受け取ること。

 

謙虚そうに見えて、傲慢でいるのはやめなさい。

 

よくここまでやってきたね。と自分で自分を褒めるんだ。

自分が自分を励ますんだよ。

なぜなら、

聖霊やイエスがあなたを励まさないはずがないから。

 

聖霊やイエスが私に与えているのと同じように、

私も同じように私自身に与えるんだよ。

 

やっていってくださいね。

待っている。

受け取られるのを。

 

神はここにいる。

神は愛。

ここにいて、受け取りなさい。

 

精一杯やってるよ。

 

神は愛で、愛を与えたいんだ。

いっぱいいっぱい受け取りなさい。

 

まず自分自身が一番最初に酸素マスクをつける。

 

自分自身に愛を与える。慈しむ相手は自分自身。

 

自分自身を愛でいさせてあげてください。

。。。。

 

 

真の赦し

えばちゃんのブログに4/26勉強会と書いてあるのを見て、

自分のところを見直してみた。

 

のり子さんが話してくれた、加害者を加害者として見れなかった話。

幸せであってほしい。と。

 

私が訪問先の彼から感じていたのは、

 

自分はこういう寝たきりの状況になってしまった

あなたによって、そういうふうにさせられた

そのような考えとは真逆の、

 

あなたは私に何もしていません。

私には何も触れていません。

できていません。

そんなことは絶対ありえない。

あなたは女でもなければ、高齢者でも認知症でもありません。

それがあなたではない。

なぜならあなたと私は一つなのだから。

私と同じように、あなたにも何も触れられないんですよ。

 

彼がそんな目で

ただそう在る、と感じているのを感じていた。

 

のり子さんが言っていた、

”リアルでないものを、ただリアルでないと認識する”

 

それを感じていたんだな、と思った。

 

先日の、間接的にではあるけど、

ラファエルが私に対して前と同じような怒りが出たら困る、と聞いた時に感じていたのも、

 

これだった。

 

私は何にも意識していなかった。

 

ただ聖霊が聞いていたのだと思う。

 

奇跡は意識的には起きないみたいなこと書いてあったが、

本当だな。

 

そしてそれを言葉にすると、

真の赦し、というのか。

 

あなたが私に代わってみてもらう、

とはこういうことなのか。

 

彼の加害者の女性は、

高齢で認知症で、女で、、って思っていたけど、

 

それは私だった。

 

私自身が彼に赦されていたんだ。

 

それがあなたではない、と。

 

そうやって自分が赦されていたことに気づいた。

 

多分、

それはもうすでになされていて、

ただ私一人がそれに気づいて、受け取っていくだけなんだ。

 

一つだったと思い出していく。

私が誰だったのかを思い出されるんだ。

 

一つの赦しは、その場にいるその人だけのための赦しではない。

全体の私、一者の私が受け取っている。

 

なんてありがたいんだろう。

 

そう聖霊が教えてくださったんだ。

 

神様、

ありがとうございます。

 

そうやって、

神が一つにしたものを引き離すことはできなかった、と認識していくんだな。。

 

目の前のマトリックス世界の

真実とは真逆のことしか見えてない私には、まったく理解できません。。

 

呆然としてしまう。

 

理解できないけど、

思っている以上に、壮大なことなのかもしれない。

 

 

そのような聖霊の見方で見れた後も、

次々と不信や疑いが上がってきます。

 

攻撃したくなる。正当化したくなる。

 

それでももう一度、

聖霊にこのような見方で見て欲しい、意欲を差し出したい。

 

聖霊

どうかあなたが私に代わってみてください。

 

あなたが見る見方だけを望みます。

 

それだけが、私にとって唯一の幸せだからです。

 

 

  

イエスが起こした奇跡

何日か前、ラファエルが私に思っていたことを、のり子さんを通して聞いた。

 

輪島で、ラファエルに対して
私の中でものすごい疑い、不信がおこり、爆発した。

その私の怒りが自分に向けられるのが嫌だと。

  

ラファエルがそう感じていたことをのり子さんを通して聞いている時、

幸せで、嬉しかった。ありがたかった。

 

それだけしか感じなかったんだよ。

 

それが聞けて本当によかった。嬉しい。

心が嘘偽りなく、喜んでいた。

 

happy

 

なぜだか分からない。

 

聞けて本当によかった。

 

何かを私がやらかしてしまい、

悪かったね、、それを教えてくれてありがとね。と言う感じでは全然ない。

 

ただ、感謝と幸せ、嬉しかった。

 

罪を感じられない。

 

罪がない。

 

おこらなかった。

 

そんな感じ。

 

自由と幸せ。

 

マトリックスの世界ではありえない。

不思議だ。

まったく逆を信じてきたから。

 

間接的だったけど、

正直に言ってくれてありがとう。

 

それが私ではない、と教えてくれてありがとう。